エンジェルを抱きしめる 16


「敲惺? ……どしたの? 入ってこればいいのに」
『みんな、まだいる? いるなら外で話したい』
「もう誰もいないよ」
『……そうか』
 それならば大丈夫と思ったのか、玄関ドアのひらく音が聞こえてきた。
 琳が廊下の入り口に顔を出すと、敲惺は俯いて靴を脱ぎ、部屋に上がってきた。ばつの悪そうな顔をして琳の表情をうかがってくる。琳は黙って、キッチンに戻った。
 冷蔵庫をあけて、ビール缶とコーラのペットボトルを取り出す。琳のあとについてキッチンに入ってきた敲惺にコーラを手渡すと、「ありがとう」と礼を言って、少しだけ表情がゆるんだ。
「なにがあったの?」
 フタをひねる相手に問いかける。炭酸の抜ける音がしたけれど、敲惺は手を止めてフタは外さずに、そのまま調理台の上にボトルを乗せた。  
「……あいつは琳を侮辱した」
 琳は首を傾げて、相手を見返した。あいつとは、高之のことだろう。
「それに、差別的な発言もした」
「高之さんは、自分以外の他人には、誰に対しても差別的だよ」
 敲惺は、その答えに黙り込んだ。琳から視線を外して、なにもない空をにらむ。
「そうかもな。俺に対しても、中卒とか言ってたし」
「そうなんだ」
「別にそれはいいんだ。俺のことは」
 敲惺はさっきの憤りを思い出したのか、拳を握りしめてキッチンの入り口の柱を叩いた。
「けど、琳のことは許せない。その場にいないのをいいことに、勝手なことばかり喋ってた」
 琳は瞳を瞬かせた。
 敲惺が怒っている原因が自分にあることに戸惑いを覚える。敲惺自身が侮辱されて怒るならわかるが、それは構わなくて、琳のことで腹を立てている。
「なんて言ってた……?」
 あえて聞いてみると、敲惺は言いよどんで、それから唇を噛みしめ「言いたくない」と吐き捨てた。
「敲惺が怒る必要はないよ。高之さんはああいう人だし。……明日にでも、おれの方から高之さんにちゃんと話しとく」
 今頃きっと、純太郎が高之と話をしている。そのメッセージがあとで届くはずだから、それを読んで、それから自分の方から高之に連絡を取ろう。
 なにがあったのか明らかになれば、ふたりの仲も取り持てるはずだ。
「だから、もう、機嫌なおせよ。敲惺が、おれの代わりに高之さんに怒ってくれたのは嬉しいけど、喧嘩なんかして、もし手に怪我でもしたら大変なことになるだろ」
「……ああ」
「だからさ、もういいよ。あとは、おれが自分で話しつけとくから」
 それでもまだ少し不服そうだったが、敲惺は黙って頷いた。
 琳は話をつけておくといったけれど、実際は、そんなことできる筈もなかった。今まで言いなりだったのに、急に反抗的になれるわけがない。
 けれど自分の問題に敲惺を巻き込みたくなかった。自分で決着をつけると示せば、納得してくれるだろう。
「お腹すいてない? なにか作ろうか?」
 笑顔を作って、訊いてみた。
「……いや。いい」
 コーラを手にして、あけようとして、やっぱりやめて台に戻す。琳も手元のビールには手をつけていない。お互い、そんな気分じゃないようだった。
「なあ、琳」
 敲惺が柱に手をかけて、少し考え込む顔をする。まだなにか思いわずらっているものがあるのだろうかと、その姿を見上げた。
「ひとつ訊いておきたいんだけど」
「うん」
「なんで、琳はメジャーで売れたいんだよ」
「え?」
 その言葉に、さっきのリビングでのやり取りを思い出した。
 高之は琳にメジャーで売れたいんだろうと訊いてきた。そのためにボーカルとしての高之を利用してるんだろうと。
 敲惺と高之が何についていい争いをしていたのか、少しだけその輪郭が見えてきた。高之はいつも、売れていい生活をして世の中を見返してやりたいと言っている。前のメンバーと揉めたのも、そこから始まっていた。
 敲惺とも、そういったことで意見の食い違いがでたのかもしれない。
「やっぱ、金のため? 金儲けしたいから、メジャーで売れたいわけなのか?」
 確かに琳もメジャーになって売れたかったが、その理由は高之と同じではなかった。 
「……違うよ。別に、お金は……そりゃ、少しぐらいはあればいいけど。けど、高之さんが欲しけりゃぜんぶ持ってってもらっても構わないと思ってる」
「じゃあなんでなんだ?」
 琳はシンクに手をついて、身体をもたれかけさせた。少し考え込むようにして瞳を伏せる。
 誰かと話をするときに視線を逸らせてしまうのは、昔からの癖だった。自分の言葉はいつも相手には届きにくい。向き合った相手の考えに呑まれずに意見を通すのは、琳にとってはとても難しかった。
「敲惺さ……。今年の夏フェス、行った?」
 え? と目を瞠って、こちらを見てくる。
「この前、ビデオ見たじゃん、ここで、一緒に。あれだよ」
「ああ……行ったよ」
「じゃあ、どこかで、おれたちすれ違ってたかもしれないんだ」
 琳は肩を竦めて笑ってみせた。
 ひどく心許ない笑顔だとわかっていても、無理に明るく口元を持ち上げてみせる。敲惺はそんな琳に物思わしげな表情になった。
「この前も、一緒に武道館ライブ行っただろ。あれも、すごく盛り上がったじゃん」
「うん」
「すげえ、楽しかったよな」
「ああ」
 聞いていた敲惺の面差しが、すっと穏やかになる。
 あの夜のことを思い返せば、あれはふたりで共有した、大切な思い出の時間だった。
「おれ、あんなライブやるのが夢なんだ」
 そう言うと、やっと普通の笑い顔が作れるようになる。琳が自然な笑顔になったので、敲惺も表情が同じように和らいだ。
「自分の作った歌でさ、何万人って人とひとつになって、繋がるって、すごくない?」
「うん。そうだな」
「みんなが、おれの中から生まれてきた歌を聴いて、それで、感動してくれて、一緒に歌ってくれて。そんなになったら、どんなにすごいか」
 小さいときから、ずっとひとりで、無口で言いたいこともいえなくて。
 それでも、心の中には、色んな感情があった。喋らないからって、何もないわけじゃなかった。ただ、言葉にするのが上手くなかっただけだ。
 両親は忙しくて、琳のいうことなんか聞くひまがなかったし、思春期には自分がマイノリティだと知って、もう仲間には上手に溶け込めなくなった。
 自分の考えはいつも身体の中に、出口をなくして渦巻いて、わだかまっていた。
 それを開放してくれたのが、音楽だったのだ。
 自分の創ったものが、誰かに届く。そうして、すごくよかったと認めてもらえる。そのことが琳をどれだけ支えてきたか。
 音楽が、琳の大切な、一番優秀なコミュニケーションツールだった。
「だから、メジャーになって売れたいの?」
「うん」
 それしか理由はなかった。
「だったらなおさら、自分の曲を大切にするべきだろ。売るための道具なんかにしないで。インディーズででも、発表し続けるだけじゃどうしてダメなんだよ」
 敲惺が少しだけ、怒ったようにして言う。
 琳は、敲惺が自分のことを考えてくれているという、その気持ちがわかって嬉しくなった。それにちゃんと応えたいと思えば、自然に言葉も出てきた。
「インディーズはさ、音楽が好きで、音楽を聴きたい人が、探して聴きにくるじゃない。おれらの歌をネットやライブで好きになって、そうして向こうから聴きにきてくれるってのが、普通だろ。おれらはアマチュアだし、宣伝なんて高が知れてるし」
 インディーズバンドは大きく売れているアーティストでないかぎり、多くは無名の演奏家集団に過ぎない。
「……うん」
「けどさあ、おれは、そういうのを越えて、こっちから届けられるようになりたいんだよ」
 自分の言葉が、格好をつけすぎているようで、琳はちょっと気恥ずかしくなった。
 こんなこと、あまり人に語ったことはない。けど、敲惺は口を挟むことなく次の言葉を待っている。琳は敲惺を見上げて、頬が少し熱くなったのを感じて、話しながらさりげなくまた視線を俯けた。
「メジャーで売れたらさあ、テレビとかラジオとかで、取り上げてもらえるじゃん。色んな所で、おれの歌がかけてもらえるようになって。そうなったらさ、沢山の人がおれの歌を聴くだろ? 子供から大人から、じいちゃんやばあちゃんまでさ」
 世界中の老若男女が自分の歌を聴く。そうなったらどんなにいいだろう。
 その情景を想像しただけで、胸が躍る。
 街角で、カフェで、自分の家で、車の中で。琳の音のメッセージを、暮らしていくなかで、生きていくなかで受け取って、そのひとはなにを感じ取ってくれるのだろう。琳の歌に込めた思いをわかってくれるだろうか。
 それを夢に思い描くだけで、自分がここにいる意味を見出せる気がする。
「それで、誰かと繋がって、心で会話して。おれがここにいることを知ってもらって、舞園琳っていう人間を受け取ってもらいたい」
 顔を上げたら、敲惺が真剣な表情でこちらを見ていた。
 琳はやっぱり自分の台詞が恥ずかしくなって、耳まで熱くなった。



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