エンジェルを抱きしめる 17


「……ありきたりで、陳腐な言い方かもしれないけど。そういうこと」
 小さく肩を竦めてみせる。
 手持ちぶさたで、意味もなく両手を広げて、それから後ろで組み合わせた。
「インディーズで活動を続けていって、いつかは売れるかもしれないけれど、それがどれくらいの可能性なのかわからない。だとしたら、メジャーデビューはやっぱりそれよりずっと近道だろ?」
 敲惺は真面目な顔のまま、なにも答えてくれない。なにかを考えるようにして、その場にじっとしている。
 琳は自分の言ったことがちゃんと伝わったか不安になったけれど、それ以上のうまい説明も考えつかなくて、仕方なく敲惺がなにか言ってくれるのを待った。
「そのために高之が必要?」
「……ん。売れたい目的は違っても、目指す目標は同じなんだし。協力しながら、お互いの夢を実現してけばいいと思うし」
 琳は、「それに、おれ歌、下手だし」とつけ足して小さく笑った。
 敲惺は一歩踏み出して、琳の傍にまでよってきた。調理台に凭れかかっている琳の前に立って、案じるような瞳を向けてくる。
「高之にその夢の話、したことある?」
「……ないよ」
「なんで?」
「多分、言っても……わかってもらえない」
「わかってもらえないような奴と一緒にバンドやって、利用されて、曲を書かされて。あいつは琳のことなんかなにも考えちゃいないよ。金のことしか。それはちゃんとわかってんのか」
「……わかってるよ」
「わかってないだろ。わかってたら、一緒にできるはずなんかない」
「高之さんのこと悪くいうなよ」
 琳が高之をかばうと、敲惺が理解できないといった表情をした。
 高之の口から敲惺の悪口を聞くのは耐えられなかったが、敲惺の口からも、高之を非難する言葉は聞きたくなかった。
 エンジュはいつもそうやって、人間関係が崩れて、壊れていっていたから。
「琳は、自分のいない所であいつらが何いってたのか知らないからそんな風にいえるんだ」
 訝しげに目を上げると、敲惺はこれ以上は黙っていられないと、怒りを押し殺して呟いた。
「……琳は金ヅルだって言ってた。だから優しくしてやるんだって」
 え? と思わず聞き返してしまう。
「どういうこと?」
「……」
 琳の表情を見て、敲惺は下唇を噛みしめると、痛みをこらえるような顔をした。
「高之さんが? おれのことを……そう言って?」
「……純太郎が琳がラブソングは苦手だって言ったら、追い込んで書かせろって言ってた」
 琳は何度か瞳を瞬かせて、それから上げていた視線をゆっくりと下ろした。
 焦点を失ったぼんやりとした目で、敲惺の胸のあたりを見つめる。敲惺が嘘を言っているとは思えなかった。
 だとしたら、さっきの争いはきっとそれが原因だったのだ。
「……そうだったんだ」
 ぽつりと言葉がこぼれ出る。
 胸の奥から、悪寒に似た寒々しさが広がっていった。
 高之が自分に対して優しさなど持っていないことは分かっていた。もうずっと前から。利用されているということは知っていた。
 しかし、それでも、必要とされていたから、なにか他の人とは違う繋がりが自分と高之にはあるんじゃないかと、いつもそう信じていた。琳に触れるときの指先に、何かが宿っているんじゃないかと、自分は特別なんじゃないかと、いつのまにか、そう期待していた。
 けれど、そんなものはひとつもなかったのだ。全部、琳の勝手な思い込みだった。
 気づいたら泣いていた。
 俯きがちにしていた瞳から涙がせり上がってきて、下睫が重くなって、大きな雫がぽとぽとと床にこぼれ落ちていた。
「琳」
 敲惺が背を屈めて、琳の顔を覗きこむ。
 泣いていることに気がついて、同じように傷ついた表情をした。
「高之を好きになるのなんか、もうやめろよ」
 肩に手をおいて、言い聞かせるようにしてささやく。空っぽになった心に、その言葉が虚ろに響いた。
「琳のためにならない。あいつは最低だ。琳はもっと、自分と、自分の歌を大切にするべきだ」
 けれどそう言われても、琳にはその方法などわからない。今までずっと、高之のために曲を作ってきたのだから。
 エンジュを維持するために、en-jewelで夢を叶えるために。
「でも、おれは、エンジュから離れることはできない」
「琳」
「ずっとエンジュでやってきたんだ。高校のときから、ずっと。おれが曲作って、高之さんが歌って、純太郎が世話してくれて、それでやっとここまできた。今更、他に方法なんて思い浮かばない。あと少しでデビューもできそうなのに。だから、今、ここでおれがそれを壊すことはできない」
 敲惺は痛ましいものを見るように、琳を眺めてきた。
 使われているのがわかってて、それでも離れられないなんて、馬鹿な奴だと思われているのかもしれない。
「……エンジュを辞める?」
 不安になって、思わず訊いた。
「俺が?」
「エンジュのやり方が、うちのバンドがこんなだってわかって。――今までも、こうやって、みんな、辞めていったんだ」
 琳がこんなで、呆れて去っていくかもしれない。けれど、そうだとしても仕方がなかった。敲惺は実力もあるし、他でも十分やっていける。今のエンジュに束縛するのは間違っているのかもしれない。
「辞めるんだったら、……それでも、……いいよ。敲惺にとって、もっといいバンドがあるかもしれないならさ」
「辞めないよ」
 敲惺は、静かに答えた。
「俺は辞めたりしない。琳の傍にいる」
「……おれ、こんな優柔不断なのに?」
 泣き笑いの表情で答えれば、憂いをおびた瞳で見つめ返される。真摯な眼差しは琳の痛みを理解してくれているようだった。
「琳の考えてることは、よくわかったから」
 優しい返事に瞼をとじると胸の奥が甘く痺れて、涙がにじんできた。
 敲惺の腕がゆっくりと琳の背にまわされる。
 心地よく引きよせられて、自分よりずっと大きな身体に守られるようにして包まれた。その柔らかな安心感は、他人から初めて感じるものだった。
 親にも従姉にも、誰にもこんな風に抱きしめたもらった憶えはない。ほんの少し甘い香りがして、それが異国の香草(ハーブ)を連想させた。それにもほっとさせられる。
 ここは安全な場所、と香りが教えてきていた。ここにいれば、誰も琳を傷つけることはない、と。
「傍にいたいんだ」
 敲惺がささやけば、そのゆるやかな振動が触れていた胸を伝って琳の耳に響いてきた。敲惺の身体が奏でたメッセージ。暖かくて、柔らかくて切なかった。
「琳」
 抱きしめる腕が強くなり、髪の上に頬が重ねられる。
 琳は自分も腕を相手の背中にまわして身を委ねた。敲惺は首を傾げて、ひたいに自分の頬を押し当て、そうしてから琳の口元にも頬で触れてきた。
 琳が目をあけると、少しだけ表情を覗うようにして顔を離す。
「琳のことが、好きなんだよ」
 小さくささやいて、ほんのわずかの間だけ唇を重ねてきた。
 慰めるようにして触れたそれはすぐに離れて、今度は琳の髪に強く押しつけられた。かき抱かれるようにして、胸の中に取り込まれる。琳も腕に力を込めてその背に縋った。
 敲惺のシャツを掴むと、抑えていたものがあふれてきて、どうしようもなくなって、小さく啼くようにして嗚咽を漏らした。
 琳は長い間、その場で泣いていた。涙はほとんど出なかったけれど、気持ちはずっと昂ぶっていて、動くことができなかった。
「泣かせたくはないんだけどな」
「……うん」
 わかってる。琳は小さくうなずいた。こんなことで泣いてしまって、敲惺を困らせてしまったかもしれない。けれど、敲惺はそんな琳をいとおしむように、いつまでもじっと抱き続けた。
 やがて琳が少し落ち着くと、そのまま立て抱きにかかえあげて、リビングのソファのところまで連れて行った。
 ソファに寝かせて、近くにあったティッシュの箱を引きよせる。横におくと、寝室に入って行って琳のいつも使っている毛布を持って出てきて、ふわりと上から被せた。琳はそれに丸まって目を閉じた。
 敲惺は、もうなにも言わなかった。
 ソファの下のラグに座り込んで、額にかかる髪をやわらかく擦る。何年ぶりかに泣いてしまった琳は、鼻から頭にかけてぼうっとした痛みを覚えて、その心地よさにうつらうつらとしてしまった。
 大きな手で守られて、撫でられて、安心が胸の中から溢れてくる。
 敲惺はエンジュを辞めないと言ってくれた。琳の傍にいると。
 よかった――。そう思うと、暖かい眠りの中に落ちていった。



                   目次     前頁へ<  >次頁