エンジェルを抱きしめる 18
明後日にあったスタジオ練習は、問題なく行われた。
琳は少し緊張して、どうなることかと心配したが、高之のほうは知らん振りをしていたし、敲惺は、琳がきちんと自分の考えを伝えていたので、それで我慢してくれているようだった。
あのあと純太郎からは、高之と話をしたというメッセージを受け取っていた。
高之は、別に自分が馬鹿にされたわけではなかったので怒ってはいないという連絡をもらっていた。向こうはふたりのあいだでそれなりに話がついているらしく、高之が敲惺にけしかけて来るようなことはなかった。
純太郎は練習のあいだ中、神経を尖らせて高之から目を離さないでいたし、初ライブに気を張っているのは誰もが同じで、今は余計な問題は棚上げにしたいというそこだけは、皆の意見が一致しているようだった。
スタジオ練習が終わって、いつものように琳の部屋に集まる。アルコール班だけが買い出しに行くあいだ、琳はキッチンで敲惺と一緒に夕食の準備をした。
「琳」
料理の最中に、呼ばれて頭を上げる。ちゅっと小さな音を立てて、口元にキスをされた。
「……」
琳が目を剥いたままでいると、敲惺は眉をよせて、少し困った顔をした。
あの夜以来、敲惺はこうやって人目を盗んで琳にキスしたり腰を抱きよせてきたりする。琳はその度に慌てて、赤くなって、慣れない行為に焦るのだった。
敲惺は泊まっていった翌朝、琳と一緒に朝食をとった。その後も、その日はずっと夜まで部屋にいた。ふたりで何をするともなくビデオをみたり話をしたりして過ごして、夕食も琳の部屋で食べて終電で家に帰っていった。
そうして、スマホで連絡を取り合って、次の日も一緒に出かけた。楽器屋やCDショップをまわって買い物をして、食事をして、やっぱり終電まで琳の部屋にいた。そして今日も朝からずっとふたりは一緒にいる。
敲惺は人目のあるところでは普通にしているが、それがなくなると急に琳との距離を詰めてくる。琳がそれに戸惑うと、両手を広げて、これ以上はなにもしないよ、と意思表示して、それから少しだけ残念そうな笑顔をみせるのだった。
「大丈夫? また固まってるけど」
「あ、ああ。……うん、ちょっとびっくりしただけ」
赤くなった顔を俯ける。
琳がやめて欲しいとは言わないから、敲惺は自然にそういったことをしてくる。もちろん、嫌ではなかったが、なにせそういったことには慣れていない。日本人だからか、今まで経験がなかったからなのか、とにかく好意を示すのに躊躇がないアメリカ暮らしの敲惺とは、愛情の表現の仕方が異なる。それにどぎまぎしてしまう。
それでも、溢れてくる愛情を表現したくてたまらない、という顔をされると、琳だって嬉しくなる。大切にされているんだと思えば、胸の奥が、じわっと暖かくなるのだった。
敲惺といると、高之のことを忘れられる。あの夜の一件以来、暗く濃密だった霧が晴れるように、琳の心から高之への想いは消えていっていた。
五年間の、恋しい気持ちと同じだけの苦しみ。それがこんなにあっけなく姿を消したことに、琳は驚いていた。金ヅルだから優しくしてやっていると言われて、傷ついて、もっと長く引き摺るかと思っていたのに、簡単に赦すことができた。
高之がああいう人だとは分かっていた。分かっていて、けど琳も頼っていた。中身のない優しさに、他に行き場がなかったから縋っていた。
そうして、そんな琳を助けて、解放してくれたのが敲惺だった。
傍にいたいと言ってくれた言葉は、きっと忘れられない。
リン、リンリン、リンと鼻歌まじりに野菜の皮を剥く敲惺の姿は、少しだけ、琳の目には眩しかった。
「なあ、琳」
敲惺が皮を取り除いた野菜を手渡してきて、琳はそれを受け取ると、まな板にのせて切った。
「なに?」
手元に集中しようとしていた琳は、顔を上げずに訊き返した。五人分の夕食はそれなりの量になる。もうすぐ皆が戻ってくるから、急いで準備をしなければならない。
「寝室にさ、鍵つけないか?」
「えっ?」
包丁が滑って、指先に落ちた。焦ったのは、敲惺の台詞にか、それとも切れそうになった指になのか。
恐る恐る顔を上げると、敲惺が、もうそろそろ辛抱できないんだ、といった表情でこちらを見てきた。
目を瞬かせて、どう答えたらいいのか言葉を探していたら、敲惺が苦笑した。
「みんな合鍵もってるだろ? だからさ、途中で入ってこられたら困るんじゃない?」
途中ってなにさ? とは聞けない。そこまで子供でもない。そうして、敲惺の望みが何であるのかわからないほど鈍感ではなかった。
「げっ、玄関に、チェーンあるじゃん。あっ、あれ。あれ閉めればいいんじゃないの?」
答えながら、それが敲惺の望みに対するOKの返事になっていることに気がついた。琳も次のステップに進むことにやぶさかではない。そういう答えだ。
けれど琳の提案に、敲惺は少し不満げな顔をした。
「チェーンはあるけどさ。けど、わざわざ玄関まで戻ってかけてこなくちゃならないだろ? もしもふたりでいた時にベッドインしたくなったらさ、その手を止めて、どっちかがあそこまで歩いていかなくちゃならないんだぜ?」
それがどういうことか解ってる? と表情を渋くして訴える。
しかし琳にはあまりよくわからない。玄関まで戻るのがそんなに手間なのか? 眉根をよせて、難しい問題でも解かなきゃならないような顔をしたら、敲惺のほうは、なんで解らないの? と不思議そうな顔をした。
その時、玄関ドアのひらく音がした。
買い物袋がこすれあうガサガサという音が聞こえてくる。ふたりは同時にそちらに振り返った。話はそこで打ち切りとなる。
敲惺が小声で「琳、鍵のこと考えといて」とこっそりささやいてきた。
高円寺にいつもen-jewelがライブをしているライブハウスがある。
そこで十月の中旬、新生en-jewelは、久しぶりのライブに参加した。
ライブは午後六時半に開演し、en-jewelは五つあるバンドのうちの、二番目に演奏をした。
エンジュの新メンバーがステージにあがると、高之目当ての女の子たちから黄色い声がかかり始める。セッティングを終えて、高之が久しぶりとの挨拶と、新しく入ったメンバー紹介をしたあと、いきなりアップビートの新曲から入った。
会場が沸いて、いっそうの歓声が飛び交い出す。
スポットライトがあたる中、最初に迅がギターをうならせた。続いてドラムの敲惺が躍動的なリズムを刻む。安定感があって正確なドラミングに、滑らかに撓る腕が映えた。敲惺は背が高く顔つきもしっかりとしているので見栄えもいい。
琳のキーボードが、曲に繊細さと幾分かのしなやかさを与えると、そこに高之が低音から婀娜っぽくもストィックな声音で歌に入り込んだ。
会場が一気に盛り上がって、それがステージにまで反映した。
琳は久しぶりの高揚感とグルーグ感に我を忘れて、癖になった跳ね足で演奏を続けた。高之の声の調子も、今日はすごくいい。数ヶ月ぶりにステージで歌えるのが、開放感につながっているようだった。
そのあと、エンジュは続けざまに四曲演奏してから、惜しまれながらステージから降りた。新曲を二曲と、以前好評だった二曲。どれも沸き返るようにしてファンに受け入れてもらえる。高之が礼をいって、数十分間のエンジュの出番が終わった。
あっという間のようで名残惜しい感じがしたのは、メンバーだけではないようで、ファンの子もいつまでも声をかけてくれている。その声援の中、機材を仕舞おうとすると、重い荷物の多い琳を敲惺が横から助けてくれた。
薄暗くなったステージ上で、敲惺は満足そうに笑っていた。
その笑顔に、どうしようもなく魅かれてしまう。他のメンバーに気づかれないように、琳は赤くなった顔を俯けた。きっと、今日ばかりはステージでの興奮が冷めやらぬせいでそうなっているのだと、皆が思ってくれるだろう。
キーボードとスタンドを片付けて、琳と敲惺は純太郎の車にそれを運び込んだ。
身軽になってから、もう一度ライブハウスに戻って純太郎がどこかと探せば、物販のスペースに迅とスタッフと共にいた。
録画した動画を見ている。見知った後姿もあり、近寄っていって声をかけた。
「こんばんわ。大久保さん、お久しぶりです」
振り向いた短髪にカジュアルな装いの三十半ばの男が、琳の顔を見て、にっと微笑んだ。
「やあ、琳。久しぶりだな。また背が伸びたんじゃないか」
「……伸びてませんよ」
ちょっと拗ねたように返事をする。エリシオン・レコードの大久保と琳のいつもの挨拶だった。
「こんにちは」
琳の後ろに立っていた敲惺も、大久保に声をかける。
「おう、敲惺。お前は相変わらずでかいな。また伸びたか?」
「はい、まだ止まってないです」
「でかすぎだよ、お前は。琳に少し分けてやれよ」
敲惺がちらりと琳を見て、困ったように微笑んだ。
琳は身長の話よりも、もっと他に訊きたいことがあったので、焦れたように大久保を見返した。大手レコード会社のプロデューサーがせっかく来てくれたのだ。今日のステージの感想を聞きたい。幸い、次のバンドの演奏はまだ始まっていない。今のうちに、少しでも話を聞いておきたかった。
「いい感じだったな」
琳の気持ちを汲み取ってか、大久保がエンジュのメンバーを見ながら答えてきた。
「前より安定してた。やっぱり迅と敲惺を呼んで正解だったな」
それに、ほっと息をつく。いい評価がもらえてやっとひと心地がついた。
次のバンドの演奏が始まったので、大久保は、終わってからまた話そうといって琳たちから離れていった。琳と敲惺は、他のバンドのステージを見たり、純太郎を手伝ったりして終演を待った。
ライブが終了し、撤収が済むとエンジュのメンバーは共演したバンドとの合同の打ち上げには参加せずに、大久保を含む六人で、他の店で打ち上げを行った。エンジュのこれからについて、アドバイスを受けながら反省会を兼ねて、終電近くまで話し込んだ。
高之はステージでの出来がよかったからか、始終上機嫌だったし、純太郎は今後の予定を取り付けようと大久保に一所懸命はなしかけていた。
迅は大久保の信頼を以前から得ているらしく、友人のように落ち着いてその話を聞いていた。琳はいつものように、一番隅で黙って聞いていた。敲惺もコーラ片手に振られた話にだけ丁寧に答えていた。
「高之の声に支えられているんだからな、エンジュは」
大久保のその言葉に、高之が満足そうに笑う。その台詞が本音なのか、持ち上げただけなのかはわからなかったが、大久保はある程度、高之の操作方法を心得ているらしかった。
一次会がおひらきになったところで、飲めない敲惺はひとり先に帰ることになった。大久保についていくと朝まで飲むことになるだろうから、それに付き合わせるのも可哀想だという判断だった。
それじゃあと敲惺と別れて、しばらく他のメンバーと歩いていると、スマホにメッセージが届いた。
見てみるとそれは敲惺からで、琳の部屋に泊まる、とあった。
その一文に、心臓が跳ね上がった。どうしようかと、少しうろたえてしまう。
皆に気づかれないようにそっとスマホをしまうと、純太郎の横にいって、こっそり耳打ちした。
「……悪いんだけど、飲みすぎたみたい。先に帰ってもいいかな」
「なに? 大丈夫か?」
「うん。少しつらくなってきた。家に帰る……」
それは本当ではなかったけれど、純太郎は琳があまり酒に強くないことを知っているので、大久保に挨拶だけさせて、「早く帰って寝ろ」と言ってくれた。
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