エンジェルを抱きしめる 19


 琳はメンバーと別れて、急いでマンションに戻った。
 電車はまだ動いていたから、それに飛び乗れば、自分の家の最寄駅につくまでの間、ずっと鼓動は早いままだった。
 慌てて家まで行くと、鍵を使って部屋の中に入る。
「……琳」
 そこにちょうど廊下に出てきた敲惺と出くわした。
「どした? 二次会は?」
 連絡なしに帰ってきたから驚いているようだった。
「あっ、あ、うん。戻ってきた……」
「なにかあった?」
「えっ、いや、別に、ないけど」
 スニーカーを脱ぎながら、もごもごと言い訳を口にして廊下に上がる。そのまま早足で敲惺の横をすり抜けようとして、腕を掴まれた。
「琳」
 さっきよりも、ずっと心臓が駆け足になっている。顔の赤さは一次会で飲んだアルコールのせいだけではないだろう。
「寝室に、鍵、ついてた」
「うっ、うん」
 恥ずかしくなって、相手の顔がまともに見れなかった。背をむけて、俯きながら返事だけを返す。
 敲惺が琳に『鍵をつけて』と頼んだ日から、幾日かが経っていた。
 その間、この部屋でふたりきりで何度かすごした。琳のことが好きだと告げられたあの晩からずっと、考えてみれば、敲惺には次のステップに進もうと思えば、機会はいくらでもあったはずだった。
 琳はチェーンさえかければいいだろうと答えていたし、実際、そうすればこの部屋には誰も入ってこられない。
 けれど、敲惺はそうしなかった。
 軽い、慰めるだけのようなキスはしたけれど、それ以上は決して仕掛けてこなかった。
 それがなぜなのか考えて、琳は、敲惺が待っていてくれるのだ、ということに気がついたのだった。
 敲惺は、琳の心から、高之が出て行って自分を受け入れることができるようになるまで、辛抱強くその時を待っているのだ、と。
 『鍵をつけて欲しい』というのがそのメッセージで、もしも琳がずっと鍵をつけなければ、敲惺は琳の気持ちが自分のほうに向かないと判断して諦めるつもりでいたんだろう。
 敲惺は決して無理強いせずに、琳の気持ちが変わるのを待っていてくれるのだ。
 自分を抑えて。
 そのことがわかった時、琳は自分も、どうしようもなく敲惺のことが好きになっていると、はっきり自覚した。傍にいたいと言われて、同じようにそうだということに、それ以上に、もう離れたくはないと思いはじめていることに気がついて、駆り立てられるようにして鍵を買いにいった。
 それが、今朝のことだった。
「……琳」
 請うようにして、名を呼ばれる。
 琳は身体が熱くなって、どきどきしすぎて、顔を上げることがどうしてもできなかった。
「こっち向いてくれ」
 腕だけ捕らわれたままで、背後から低くささやかれる。
 打ちつける鼓動で心臓はもう限界だった。手のひらや胸のあたりが汗ばんでくるのがわかる。今夜は寒いはずなのに、身体だけ発熱するように火照っていた。
「好きだよ」
 言葉がじわりと胸にきて、熱が急激に目元に集まってくる。視界がぶれて、そうして、手足から力が抜けていった。
「……うん」
 小さく頷くと、そのままゆっくりと抱きよせられた。
 まだふたりともステージの余韻が残っていたから、熾火のような熱が裡にこもっている。後ろから包み込まれて肌が触れ合えば、そこからまた煽られて新しい焔が生まれてくるような気がした。
 敲惺が琳の頬に手をあてて上向かせる。落ちてきた唇は、今までとは明らかに違っていた。ただ、戯れるだけではなくて、明確な欲求を持っている。
 琳が頬に添えられた手に指先をあてがうと、敲惺はさらに深く、唇の中に侵入してきた。
 苦しいほどのキスは、初めてのものだった。敲惺の舌が琳のそれを探り、琳はそれにうまく応えられなくて、されるがままに身を任せた。
 抵抗はしなかったけれど、戸惑っているようには思われただろう。指先も震えていたから、敲惺はそれに気づくと、琳からそっと離れていった。濡れた唇をきゅっとしまいこんで引き結ぶのを、もどかしそうに、欲情を堪える目つきで見てくる。
 今までずっと我慢して、待ちわびて、それでやっと手に入れたものをどう扱っていいのかわからない、というように苦く微笑む。
 琳は経験がないから反応が下手だったわけで、決して嫌ではなかったから、敲惺の服の袖を引っ張るようにして言い訳した。
「あ、あのさ……。ライブで、いっぱい汗かいたじゃん。だ、だから、さ。えっと、……先にシャワー使いたいんだ」
 Uh-huh(なるほど)と鼻を鳴らして納得される。
 敲惺が手を離したので、琳は寝室に入った。大きくひとつ深呼吸をしてから、着替えを持って部屋を出る。
「えと、……俺が先でもいい?」
「いいよ」
 廊下の壁にもたれかかっていた敲惺が、笑顔を見せた。
 気を悪くしたような様子はなかったから、ほっとする。そのまま洗面所に入って、シャワーを使った。そのあいだ中、心臓は相変わらず落ち着かなくて、琳はなんだか逃げ出したいような気持ちに駆られた。
 別に、敲惺が嫌いなわけじゃなかった。ただ、単純に、怖かったのだった。
 琳がシャワーを終えてTシャツに下着姿で出てくると、敲惺が玄関ドアをあけて外から帰ってきたところだった。かちゃりと音を立てて、チェーンもかけて鍵をしめる。
「どっか行ってきたの?」
「うんまあね」
 小ぶりのレジ袋を手にぶら下げて、今度は敲惺が寝室に入っていった。しばらくして、自分の着替えを手に出てくる。ここのところ泊まることの多かった敲惺は、着替えをいくつか琳の部屋に常備するようになっていた。
「シャワーあいたよ……」
「わかった」
 敲惺は平然とした様子でかるく微笑むと、洗面所に消えていった。
 その余裕っぷりに、琳のほうが落ち着きをなくしそうだった。なんだか、敲惺のほうがゆったりと構えている。こういうことには手馴れているのか琳をリラックスさせようとしているのか、この期に及んで、年下の敲惺のほうがずっと大人っぽく感じられた。
 琳はキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して少しだけ口をつけた。それで、平常心がやっと戻ってきた。
 寝室に足を踏み入れると、ベッドの上に何かおかれているのに目がいく。
 近よってサイドテーブルの上の小さなライトを灯した。ベッドに乗り上げて見てみれば、それはさっき敲惺が手にしていた袋だった。コンビニの袋ではないらしい。
 ひっくり返すと、中からローションのチューブと、コンドームの箱が出てきた。
「……」
 目にしたことはあるが、使ったことのないものたちだ。
 チューブのほうを手にして、ラベルを読んで、商品説明の煽り文句にかるく目眩を覚えた。横にある箱も手にすると、サイズがLLとあって、思わず取り落とした。というか、ここにおいたままでシャワーを浴びに行った敲惺のあっけらかんとしたやり方に、これが普通なのだろうかと驚いてしまう。
 そういえば、琳は以前、敲惺に恋人はいるかと訊かれて、『今はいない』と嘘をついた。
 今どころか、琳には生まれてから一度も恋人がいたことはない。きっと敲惺は、琳も手順が分かっていると思い込んでいるのだろう。琳のそういった方面の知識は少ない。チューブを握りしめて、困ったことになったと焦り出した。
 そこに、シャワーを終えた敲惺がボクサーパンツのみで現れた。手にはコーラのボトルがある。琳に笑いかけてから、寝室の鍵をしめた。
 ベッドの近くまでやってきて、コーラをサイドボードの上におく。まるで鼻歌でも歌いそうな機嫌のよさでベッドに乗り上げると、向かいに胡坐を組んで座った。
 琳が上目で窺うように見る中で、コンドームを取り上げて、チョコレート菓子の箱でもあけるようにフィルム包装の端の紐を引っ張りはじめる。
「……えっと、さあ」
 琳が、小声で話しかけた。うん? とばかりに敲惺が顔を上げる。
「それってさあ、おれの分ないの?」
 その言葉に、敲惺の手元がぴたりと止まった。
 琳に目を向けて、「え?」と訝しげに眉をよせる。
「……琳の分、いるの?」
「いらないの?」
「琳、欲しいの?」
「やっぱ、いるんじゃない?」
 敲惺は口をあけたまま、少しの間、頭の中を整理するように考え込んだ。
 それを見て、琳は自分がなにか、間違ったことを言ってしまったのかと迷いはじめた。
「……えっと」
 敲惺はベッドから降りると、コーラのボトルを手にドアへと向かった。
「なんか、ベッドインする前に、話し合いが必要みたいだな。琳、ちょっとそこで待ってて」
 手をあげて琳に人差し指を向けると、そのまま寝室を出て行ってしまう。残された琳はベッドの上で、ほとんど正座の状態でそれを見送った。
 自分はなにか、変なことを言ってしまっただろうか。琳は口にした台詞を、自分の乏しい知識と照らし合わせて考えた。
 男同士でなにをするのか、大体のところはわかっている。けれど、琳は自分の性癖をずっと隠し通してきていたし、そのせいで自分から情報を得ることに躊躇いを覚えていた。
 実家にあるパソコンは家族共有で勝手な使い方は怖くてできなかったし、ひとり暮らしになった今でも琳の部屋のパソコンはメンバーが皆好きなときに使っている。だから、男女のそういったサイトはメンバーが勝手にお気に入りに登録していたが、琳自身は自分の性指向に関する検索はしたことがなかった。
 もし、履歴になにか残って、それがバレてしまったらと思うと恐ろしくて手が出せなかったのだ。同じ理由でスマホでもそういうことはしたことがなかった。勿論、雑誌も書籍の類も琳の部屋にはない。
 ずっと昔、実家のパソコンで少しだけこっそり見たサイトには、経験者の談話がよせられていて、そこには、どうするのか手順が書かれていたが、挿入することはほとんどなく、ただお互いに慰めあうだけというのが普通だと記されていた。だから琳はそれが普通だと思い込んでいた。シーツを汚すことの出来ない状況で、互いにゴムを使って慰めたとあったそれに、琳は納得したのだった。
「もしかして、あれって普通じゃなかった……?」
 数少ない情報を鵜呑みにして、それが普通だと勝手に解釈していたんだろうか。 
 琳にはずっと高之という片想いの相手がいたが、彼とどうにかなれるとは全く思っていなかった。けれど、いつか自分にも他に好きな人ができて、その相手と恋人になれるんじゃないだろうかという淡い期待はあった。しかし、まさかそれがこんなに早く叶うとは思っていなかった。
 敲惺と初めてキスをしてから、一週間。その間に初ライブもあって、琳の心配は殆どそちらに向いていた。今、ここにきて、琳は自分の未熟さに恥ずかしくなってしまった。
 コーラを冷蔵庫に戻してきたらしい敲惺が、もう一度、部屋に入ってくる。
 鍵をかけて、身構える琳の前にさっきと同じように座ると、目の前に広げていたものを大きな手で、ざっと横にまとめて除けた。
 そうしてから、首を傾げて琳の瞳をのぞき込む。



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