エンジェルを抱きしめる 23(R18)


 スタジオ練習が終わると、予定がある者以外は、いつも琳の部屋に移動する。
 最近は話し合わねばならないことも多かったので、五人全員が、琳のマンションに欠かさず集まっていた。
 ワンマンライブのこと、来年の予定、その他演奏のこと機材のこと。
 決めなければならないことも多く、ここの所は、夜遅くまで全員が琳の部屋に入り浸った。
 純太郎も、二度に一度は琳の部屋に泊まっていた。敲惺は、純太郎がいるときは泊まったり泊まらなかったりしている。敲惺はずっと琳の部屋にいたがったが、家の仕事やドラムの練習が控えていて、そうもいかないようだった。
 今日も、話し合いが終了して高之と迅が帰った後、残った純太郎にはやく帰れとも言えない敲惺は、それでもそ知らぬ振りでソファにもたれて雑誌などを読んでいた。
 琳はその様子に内心で苦笑しながら、パソコンで曲を触ったり、純太郎の横で仕事ぶりを見守ったりしていた。
「あ~疲れたな。じゃあ、今日は帰るかあ」
 大きく伸びをして純太郎が帰り支度を始めると、敲惺はにっこり笑っておやすみなさいと言った。
「あれ、敲惺、今日も泊まり?」
「俺の家、海老名のはずれで遠いですから」
「そうだったな、まあ、お疲れさん」
 玄関まで純太郎を見送りにいって、ドアの外に送り出したあと琳はチェーンをかけた。寝室に鍵は付けたが、二重の安全のためだ。
 琳は敲惺と付き合いだしてから、敲惺がベッドインになったとき玄関までチェーンをかけにいくのなんて無理だと言った理由がわかった。
 あの時は、まだなにも知らなくて、なぜ無理なのかそこまで想像が及ばなかったのだが、確かに一度その気になって走り出したら、ふたりとももうその手は止められないということを身をもって知らされた。
「……」
 敲惺は、琳よりも経験が豊富なんだな、とわかって少し落ち込んだ瞬間でもあった。
 琳が俯きがちになってリビングに戻ると、敲惺が声をかけてきた。
「琳、明日、バイト何時から?」
「えと、……十時にしてあるはず」
「じゃ、ゆっくりできるよな。一緒に風呂はいろ?」
 真横にきていた顔を見れば、なんだか期待に満ちた表情をしている。
「え? あ、うん」
 琳が頷くと、敲惺は笑顔になって洗面所に準備をしにいった。敲惺が泊まっていく晩は、こうやってふたり一緒に風呂にはいったりもする。しばらくして琳も洗面所に入れば、そこにはもうバスソルトを入れたいいにおいが漂ってきていた。琳の横で敲惺が服を脱ぎだすと、無駄なく整った肢体に目が奪われる。
 敲惺の体格は、どちらかというと日本人離れしている。腰の位置もたかく、肩幅も胸板のつくりも大きい。背筋が伸びていて姿勢もいいので、服を脱ぐと本当に均整がとれていて美しいのがよくわかる。
 ふたり身体をよせ合って、琳の後ろから抱きこむようにして、敲惺がバスタブの端にもたれかかりながら湯船に浸かった。ゆったりとひたっていると、そのうちにいたずらっぽく琳の細い肢体をなぞるようにして後ろから手を這わせてくる。
 琳は気持ちがよかったから、相手の首に頭を預けて、されるがままにしておいた。太腿の内側に滑らせるように手を差し入れて、柔らかいペニスを指先で下から軽くノックしてくる。
「マシュマロみたいだな」
「くすぐったいよ」
 不満を言えば、敲惺は素直に手を離した。それから自分の手首のマッサージを始める。ここで事に及ぶ気はないらしかった。
 プロを目指す人間らしく、琳の身体よりも自分の身体の手入れのほうに熱心になる。琳はのぼせて赤くなった顔で、それを見つめた。
 ふたりで互いに髪と身体を洗いあって、茹で上がったタマゴみたいになりながらバスタブを出て、タオルで身体を拭きあった。そのままなにも纏わずに廊下をぺたぺたと歩いて寝室に向かう。
 琳がベッドに倒れ込むと、暫くしてからコーラのペットボトルを手にした敲惺が部屋に入ってきた。琳に向かって意味ありげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと鍵をかける。
 唇に人差し指をあてて、ドアに耳をつけて外の音を聞く仕草をしてからベッドにくるものだから、琳のほうもくすくす笑ってしまった。そんなおどけたことを、日本人はベッドに入る前にしたりしない。敲惺は、琳をリラックスさせようとして、時にこんなことをしてくる。
 持ってきたボトルに口をつけると、フタをしめてサイドボードの上においた。そうしてコーラ味のキスをしながら、ベッドに乗り上げてくる。琳はその首元に腕を回して、相手を迎えた。
 敲惺は決して琳の嫌がることはしない。ゆっくりと手をかけて、育てるようにして琳の身体と心を作り変えていく。
 最初の一回で琳が痛がって驚いたせいで、敲惺自身もそのことにナイーブになっているらしく、自分の望みを後回しにして、琳のために尽くしてくれる。
 誰かを好きになって、それが相手にきちんと届いて、そうしてそれが倍以上になって返ってくる。自分の気持ちが、否定されたり無視されることなく、相手に受け入れてもらえる。自分もそういうことができる、それを望んでもいいんだと、敲惺はいつも教えてくれるのだった。敲惺の傍にいて感じる安心感は、琳の心を穏やかにしてくれる。自分は護られていると、安堵できる。
 敲惺の首に手を絡めて身を任せながら、だから絶対に失いたくはないと、強く思った。



 数日後、琳のスマホにメッセージが届いた。
 純太郎からのもので、電話が欲しいとある。琳はちょうどその時、ひとりで部屋にいた。
 スタジオ練習の入っていない日で、朝からコンビニのバイトに行ってさっき帰ってきたところだった。
 時間は午後五時。敲惺がもうすぐ遊びにくる予定になっている。
 その日は、エリシオン・ミュージックで、新人発掘会議の開かれるはずの日だった。琳はメッセージを確認すると、すぐさま折り返し電話をかけた。
「純太郎」
 相手が出ると、待ちきれずにこちらから呼びかけた。
『おお、琳。よかった。バイトじゃなかったのか』
「うん。今日はもう入れてない。それで、で、どうなった?」
 息せき切って問いかける。純太郎は電話の向こうで笑っているようだった。
『会議は通ったって。大久保さんの上司の、承認が取れたそうだよ』
「本当に?」
『今後、エリシオンの中で、エンジュのデビューについての話が進んでいくことになる。これからen-jewelをどう扱って、どういう風に売り出すか。それと同時に、大久保さんが担当になって、契約の話を進行していく流れになるらしい』
 心臓が大きく弾み出す。
『よかったな、琳』
「……うん」
 胸が一杯になった琳に、けれど、電話の向こうの純太郎は、少し口調を改めて言った。
『それでだ……な、お前にひとつ言っておきたいことがあるんだ』
「うん?」
『今度の、ワンマンライブ。十一月二十五日に行われる予定のやつ。あるだろ?』
「……うん」
 電話口の話し声が慎重なものに変わって、琳は嬉しさとはまた別の緊張を感じた。
『あれに、大久保さんが会社の製作部の人を連れてくるらしいんだ。プロモーション担当の人や、販売促進担当の人も。それから、プロダクションの人。あと、雑誌の編集者もきて、ライブ前にインタビューが入る。そっちは高之だけの予定らしいけど』
「そうなんだ」
 話が急に具体的に進み始めたので、琳は身が引き締まる思いがした。
 エンジュを巻き込んだ大きな歯車が回り始める、そんな感覚だった。そのなかに自分もいる。それは嬉しいけれど、すこし怖くもあった。 
『それで、このことを知ってるのは、今のところ俺と迅さんと、お前だけだから』
「え? ――高之さんと敲惺は?」
『高之には伝えてない。ライブ当日まで、あいつには言わないでおくつもりなんだ』
「……どうして?」
 尋ねながら、どうしてかという心当たりも思い浮かんだ。
 この前の、純太郎と高之のやり取りだ。純太郎は、高之に酔うと口が軽くなるから気をつけろ、と注意をしていた。
『高之のやつ、この前の話、やっぱり女の子に漏らしてた』
「えっ」
『けど、そっちは大丈夫だ。女の子のほうがなんのことかよくわかってなかったから、俺がその子に会って、噂だから流さないでくれって口止めしといた』
「そう……」
『だから、今回のことも、あいつが漏らしたら面倒なことになる。あいつにはツイッターもブログも、そういう類の物は一切やらせてないのはそのためなんだし。軽率な行為が噂になって広まるのはあっという間だからな』
「うん」
『だからライブが終わるまでは高之には内緒にしておく。インタビューだけは受けさせるけど。それでもその他のことは、俺がうまく誤魔化しておくから、琳からはなにも言っちゃダメだぞ』
「わかった。けど、敲惺にも内緒にしておくの?」
『敲惺か……』
 電話の向こうで、少し考え込むのがわかった。
『あいつは高之と仲が悪いだろ。この前も喧嘩っぽくなったし。今度また、ああいうことが起こって、敲惺がなにか余計なことを言わないとも限らないしな』
「敲惺はそんなこと言ったりしないよ」
 琳は、思わず力を込めて反論した。
 敲惺は言わないと約束したことをそんな簡単に漏らすような性格じゃない。それは琳が一番よく分かっていた。
「敲惺はそんなことしない。言わないでって頼めば、ちゃんとその約束は守るよ」
 琳がスマホに向かって訴えかけたとき、部屋のインターホンが鳴った。思わずモニターを振り返る。敲惺が部屋にきたようだった。
 モニターに近よって「入って」とだけ伝えた。すぐにドアのひらく音がする。琳はそれを聞きながら、スマホに向きなおった。
「だから、彼にも、ちゃんと伝えておいて」
 入ってくる相手を確かめながら、声を落として話を続けた。
『わかった。じゃあ、折を見て、俺のほうから話しておく』
「うん」
 部屋に入ってきた敲惺は、琳が電話中とわかるとバッグをいつもの場所に下ろしてソファに腰かけた。それからテーブルの上にのっていた雑誌や本に手をのばす。
 琳は横目で眺めながら、純太郎との会話と続けた。本人を目の前にしてこれ以上その話を続けたくなかったから、適当な話題に切り替えて、早々に通話を終える。
 電話を切ると、大きくひとつため息をついた。嬉しさと、緊張感と、隠しごとを抱えた後ろめたさ。色々な感情が混じり合って、素直にデビューの話を喜べなかった。
 バンドにとって運命が変わる大きなうねりが来ているというのに、足元が覚束ない。いつか、ある時、急にすべてが崩れてしまうんじゃないかという嫌な予感。それがどこから来るのかはわからない。
 けれど、その不安がいつも付き纏うのだった。
「誰から?」
 問いかけられて、後ろを振り返った。敲惺がソファから立ち上がっていた。
「え? ああ、純太郎から」
 琳は手にしていたスマホをテーブルの上においた。その横にきた敲惺が、琳の目の前に一通の封筒を差し出す。
 琳はそれを見て、なんのことかと不思議に思いながら顔を上げた。
 敲惺の表情は強張っていた。



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