エンジェルを抱きしめる 24
怒っているようにも見える。
琳はその理由がわからなくて、もういちど封筒に目を落とした。それはボイストレーニング教室からのもので、表に請求書在中と赤で書かれている。
きっとテーブルの上に出しっぱなしにしていたものだろう。封は琳があけて、中身を確認してまた戻していた。
「なに……?」
「琳、これ、ボイトレ教室のレッスン料の請求書だろ」
「あ、うん」
「なんで、これが琳の名義で送られて来てるんだよ」
「えっ」
「琳がボイトレ受けてるのか? 違うだろ。そんな話、今まで聞いたことない」
問いかける声が尖っている。
責められている理由に思いあたった琳は、あわてて言い訳を口にしようとした。
「敲惺、これは――」
「高之のボイトレの金を、琳が払ってるのか?」
「敲惺……」
「違う?」
答えられなくて、思わず口ごもった。けれど、それが答えになってしまっていた。
「琳」
敲惺が、怒りが兆しはじめた声で、もう一度確認してくる。
「高之のボイストレーニングの金を、本当に、琳が払っているのか?」
問い詰められて、仕方なく、頷いた。
「……うん」
それに敲惺はさらに声をきつくした。
「おかしいだろ、そんなの。なんで、琳が高之のボイトレの金を払ってるんだ。自分の喉の管理はボーカルが自分でやるもんだろ?」
「以前は、高之さんは自分でちゃんとレッスン料を払ってたんだ。けど、高之さんは学校行ってるから忙しいし、バンドの練習も入っちゃうからバイトもそんなにできなくて、それを、おれが無理に、いいって言われてるボイトレ、追加で受けて欲しいって頼んだから」
「だからって、琳が払う必要があるのか」
「高之さんが今のボイトレ受けるようになってから、声がすごく良くなったんだ。だから、エンジュのためにもなってる。……バンドのためになるんだから、おれが払ってもいいかって思ったんだ」
「琳、それはおかしい」
琳が俯きかけていた顔を上げると、敲惺は明らかに怒っていた。
「これは高之が自分で払うべき金だ。琳が出すものじゃない」
目を逸らす琳に、念を押すように言う。
「そうだろ?」
確かにそうかもしれなかった。
高之のボイストレーニングのレッスン料を、琳が払うのは、おかしいかもしれない。けれど、高之がボイトレの教室に通い始めたのは、琳と敲惺が知り合う前で、その時は、琳はそれは間違っていないと思っていたのだ。
高之がボイトレを受けて、歌を上達させる。それは高之のボーカリストとしての向上になるし、そうなればバンドのためになるし、そうすれば結果的に琳自身のためにもなる。だから、ボイトレはもう必要ないと言っていた高之に、無理を言って通ってもらったのだ。
琳はそれを決して負担になど思っていなかった。今この瞬間までは。
「高之が琳に払えって言ったのか?」
「違う、おれが、自分から払いたいって言ったんだ」
目の前で、封筒が音を立てて握り潰された。
琳、と哀れむような声がかけられる。それにいたたまれない気持ちになった。
自分は決して、高之に使われているつもりなどなかった。それでいいんだと思っていた。間違っているなどとは、思いもしなかったし、自分からレッスン料を払うこともまったく厭わなかった。
その理由はただひとつで、以前は、高之のために、――尽くしていたのだった。
過去の自分を思い出し、琳は唇を噛み締めてうなだれた。
「……もう払うのは止めたほうがいい。これからは高之自身に払わせるんだ」
きっぱりと敲惺が頭の上から言い聞かせてくる。
「高之にちゃんとそう言って、あとは、それでボイトレを続けるか止めるかはあいつに決めさせたほうがいい。それが筋だ」
「……」
琳は黙り込んだままでいた。それに焦れた敲惺が強い口調で続けた。
「琳が高之に言えないのなら、俺が代わりに言う」
「だめだ!」
弾かれたように、頭を上げて拒んだ。
「おれが自分で言う。自分でちゃんと言う、だから、敲惺からは言っちゃだめだ」
「……琳」
頑なに拒否すると、敲惺が眉をひそめる。
今この時期に、ついさっき純太郎からワンマンライブでの会社関係者の視察の話を聞いたばかりのこの時に、高之と敲惺の間がこれ以上険悪になったらライブはどうなるのか。もう日にちは迫ってきている。
それだけは絶対に避けたかった。
「自分で、高之さんに説明する。きちんと……だから、敲惺は、黙ってて」
琳の懇願に、敲惺もそれ以上はなにも言わなかった。ただ、少しだけ納得のいかない素振りをする。
高之を庇うような形になったことを不満に思っているのかもしれなかった。
「これは、おれと高之さんの問題……だから」
けど、それだから口を挟むな、という訳ではなかった。敲惺が琳のことを気遣ってくれているということは、痛いほどよくわかっている。しかし、だからこそ余計なことに巻き込みたくはなかった。
「わかった」
ふたりの問題、と断言したことに敲惺は唇を引き結んだ。琳ももうこれ以上蒸し返したくはなかったから、ここで話を終わりにしようとした。
少しだけぎこちない雰囲気が残ってしまって、琳はどうしようかと視線を漂わせた。何か、別の話を、と口を開きかけたところで、テーブルの上のスマホが鳴った。
相手を確認する。高之からだった。
反射的に目を上げて敲惺のほうを見る。
訝しげに見返されたけれど、出ないわけにはいかず、琳は通話ボタンに触れた。
「――はい」
『琳、俺』
スマホからの声が漏れたのだろう。相手に気づいて、敲惺が目を細めた。
「はい。なんですか?」
『あのさ、今晩だけどさ、俺、そっち泊まるから』
「え?」
『明日から俺、実習はいってて、現地いくのにお前んちのほうがずっと近いんだわ。だから今日はそこで寝ることにする。今夜九時過ぎに行くから。あ、あと夕飯はいらない』
「……」
『お前、今夜バイト?』
「あ……、いえ。でも、あの、人が来てるんで」
『別に構わないよ。俺の分の布団あるんだろ。なに? 俺が行っちゃマズい奴なの?』
「いえ、そういうわけじゃ」
『ならいいじゃん。じゃ、九時過ぎに行くわ』
「あ、高之さん――」
急いでいるのか一方的に話すだけ話して、電話はすぐに切れてしまった。
今夜は敲惺が泊まっていくことになっていた。ふたりで買い物に行って夕食を作って、ゆっくり過ごすはずだった。だから夜の居酒屋のバイトも入れていない。けれど高之と敲惺と自分とで、ここで仲良く泊まれるとは思えない。
どうしようかと、目の前の相手を見上げた。
「敲惺、あのさ」
「うん」
「高之さんが、今晩、ここに泊まりたいって言ってるんだ」
「うん、聞こえた」
琳は震えるように、小さく頷いた。自分は、一体なにを言おうとしているのだろうか。
「あの、だからさ」
「ん」
言葉に詰まる。なにを、どう言っていいのかわからなかった。
「今日は、やっぱり――」
「琳」
遮るようにして、敲惺が声を被せた。
「ここにいるのが俺だって、なんで言わなかったんだよ」
「それは……」
「今日は俺が泊まるんだって。それでもいいなら来いって、なんでそう言ってやらなかったんだ」
「だから、それは」
「琳が、俺らが付き合ってるのを誰にも知られたくないってのはわかってる。特に高之には。けど、一緒にいることさえ否定されて、なぜ、あいつばかりが優先されるのか、その理由がわからない」
「敲惺」
「俺はそこまでして隠されなくっちゃいけない存在なのか」
戸惑う琳に、焦れた敲惺が唇をきつく噛んだ。
答えられないままでいると、明らかな失望の色を見せる。大きくため息をついてから、足元においてあった自分のバッグを乱暴にもちあげた。
「――わかった。今日はもう無理なんだな」
そう言うと、今まで手にしていた封筒をテーブルの上に投げ捨てた。
そのまま琳の横をすり抜けてリビングを出て行く。振り向けない琳が固まっている中、敲惺は無言で玄関へ向かっていった。
スニーカーを履いて、ドアノブを引く気配がする。それでも動けなかった。 ドアのしまる金属音が、背後で大きく響き渡る。
琳は胸が締めつけられる思いでそれを聞いた。
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