エンジェルを抱きしめる 25


 ◇Ⅳ◇


 自分の怒りがどこから来るのか、敲惺はよくわかっていた。
 琳に対する苛立ちは、すべて高之に対する嫉妬からだ。琳が自分よりも高之を優先する度に、その理由を思い返し、そうしてそれが仕方のないことだと割り切っている今でも、込み上げる感情を抑制することができない。
 琳に対して、怒りを向けるべきじゃないことはよくわかっている。琳はいつも怯えている。高之の存在に、彼の機嫌を損ねることでエンジュが壊れてしまうことに。そうして、自分がマイノリティであることにも。
 敲惺にとっては、それはどれも恐れるべき対象ではなかった。
 高之などは、怖くもなんともない。琳にもそれをわかって欲しくて、少しずつ言い聞かせてきたつもりだった。けれど、今でも、琳はエンジュという檻に捕らわれたままで一歩も踏み出せないでいる。
 琳をそこから解放してやりたいと思っているのに、どうしてもうまくやれない。
 彼の創り出す楽曲は、あんなにも開放的で、時に攻撃的とさえいえるほど尖っているのに。
 多分、それは抑圧された心が作品に反映されているからなんだろう。今の状況が、あのオリジナリティの高い曲を創り出しているのだとしたら、琳は身を削ってエンジュに奉仕していることになる。
 そんな必要がどこにあるのか、敲惺には全くわからなかった。自分の音楽は自分のためにあるべきだ。
 仲違いしてから数日間、敲惺は琳の部屋を訪ねなかった。
 あのあと、琳のほうから、『ごめん』というメッセージだけが届いた。けれども、それがまた敲惺を苛立たせた。
 自分は琳に謝らせたい訳じゃない。謝る必要なんてどこにもないのに、自分のやった言動が琳を追い込んでいる。そのことが腹立たしかった。
 自分自身の気持ちの整理がつかないせいで、敲惺は悶々としたまま、それでも、リハでは琳と顔を会わせ、その後のライブではやるべき仕事はきちんとこなした。会話は普通にできていた。用件を伝えたり、料理を手伝ったりした。けれど、琳の方が敲惺に対してずっとぎこちないままだった。
 ワンマンライブが、数日後に迫ってきていた。
 リハの入っていないある晩、敲惺は電車に乗って都心に出た。どうしても琳に会いたくなって、ひとり部屋で悩み続けるのもフラストレーションが溜まりきってしまっていたため、身体を動かしてそれを発散させようと思ったからだった。
 行動に移して、言いたいことを伝えて、それで琳がやっぱり自分とはやっていけないというのだったらすっぱり諦めよう。そのつもりだった。
 夕刻、陽が落ちて薄暗くなった最寄駅に降り立つ。琳はこの時間、コンビニのバイトが入っているはずだった。駅と琳の家のちょうど中間点ぐらいに、働いている店はある。
 そこまで歩いていって、店の前の駐車場に立つと離れた場所からそっと中を覗きこんだ。
 レジの前に琳がいる。まだ仕事中らしい。敲惺はほっとして、そのまま傍のガードレールに凭れかかりバイトが終わるのを待つことにした。
 多分、あと三十分ほどであがりになるはずだ。寒さを感じ始めた手で、ポケットからスマホとイヤホンを取り出す。耳にはめて、音楽を聴こうと思っていたところに、視界に嫌なものが映りこんできた。
 目を眇めて、それを確認する。
 店の中、レジの前にふたりの仲違いの元凶の男が現れた。
 敲惺は耳からイヤホンを外して、スマホと共にポケットにもう一度しまいこんだ。ガードレールから離れて、その様子を観察する。
 レジにカゴを出した高之は、琳になにやら話しかけていた。琳は高之が持ってきた商品を順にレジに通し、それが終れば袋に詰めながら笑顔をつくって応対している。けれど、遠目から見ても、その表情が強張っているのがわかった。
 作り笑いをしてまで高之の相手をしなければならないのかと、勝手な怒りが沸いてくる。琳をどこまでも拘束しようとする男が、忌まわしかった。
 やがて琳から離れた高之が、袋を提げて店から出てきた。この時間ここにいるということは、もしかしたら今日もあいつは琳の部屋に泊まるつもりなのかもしれない。
 自分も今夜は琳と話をするつもりで来たのに、こいつのせいで無駄足にされるのかと思ったら、腹立たしさに拍車がかかって、敲惺は思わず一歩を踏み出していた。
「お」
 こちらに気づいた高之が、少し驚いて身を引いた。
「なんだよ。びっくりするじゃねえか」
 あたりはすでに暗くなっていたから、店先の電灯の影から敲惺がそのガタイの良い姿を顕にすると、高之はあからさまに怪訝な表情をした。
 こんな時間からアルコールでも入れているのか、足元が少しふらついている。
「こんなとこでなにしてるんだ? あ、もしかして、お前も琳の家に行く途中か?」
「いや。ここで琳のバイトが終わるのを待ってる」
「へえ」
 小首を傾げて、不思議そうな顔をする。
「でも、今夜は琳の部屋には泊まれねえぜ。俺が泊まるからよ」
「俺も泊まるよ」
「マジかよ。勘弁してくれ。ゲイと一緒の部屋で寝たくはねえな」
 敲惺はさらに一歩、高之のほうに踏み出した。怒りで頬が歪むのが、自分でもわかった。
「なんだよ」
「侮辱するのか」
 敲惺が凄むと、高之は顎を上げて蔑むような目を向けてきた。背丈は敲惺のほうが幾分か高い。それでも見下ろすようにしてこちらに視線を投げてくる。
「へえ。否定するんじゃなくって侮辱だって取るんだったら、――お前、やっぱゲイなんだな」
 敲惺はその傲慢な態度を見ながら、以前、琳に言われた言葉を思い出した。高之にだけは、ゲイだということを知られないようにして欲しいと頼まれていたことを。
 もちろん、それは守るつもりでいた。けれど、煽ってきたのは相手のほうだ。アイデンティティを否定するような台詞を吐かれてジョークだと笑って流すようなことが、自分にできるはずがない。ここでゲイであることを否定したら、自分の尊厳も貶めることになる。
「だったらどうだっていうんだ」
 敲惺は表情を変えずに言い返した。高之は、それを聞いてやっぱりなという顔になった。
「この際だからはっきり言っとくが、俺はゲイが死ぬほど嫌いだ」
「だから?」
 今更なこととは思うが、差別主義者にはこちらだって人一倍の嫌悪をもよおす。
「琳には近づくな」
「俺と琳がどういう付き合いをしようが、あんたには関係ない」
 敲惺は怒りをおさえ、自分に平静さを強いて答えた。
「ないわけあるか。あいつは俺のもんだからよ」
「それはどういう意味で?」
 ふたりが、付き合っているとはとても考えられない。だったら自分のものだとはどういうことか。
「あいつはおれの所有物だってことさ」
 ふざけるな、と怒り出しそうになって、それを理性で飲み込んだ。
 ここは往来で、こんなところでやり合うのはまずい。それに、すぐそこの店の中には琳もいる。
 敲惺はつとめて冷静に、言葉を選んで反論した。
「琳はモノじゃない。ひとりの意思ある人間だ。あんたのモノだっていうのならそれは間違いだ」
「俺のものだよ。お前もゲイなら見てわかるだろ。あいつは俺に惚れてるんだからさ」
 敲惺は首を横に振って、それはありえないと笑ってみせた。
 琳は高之に囚われているかも知れないが、もう惚れてはいないはずだ。琳が高之の傍を離れられないのは、高之が彼の曲を歌うボーカルだからだ。琳は今のエンジュのために、目の前の男のいうことを聞いているに過ぎない。そのことをこいつはわかっているのか。
「琳は自分の楽曲のために、あんたの傍にいるだけだよ。以前はあんたに惚れてたかもしれないけど、今はもう違う」
 自分がいるから。それも言ってやろうかと思ったが、敢えてやめておいた。
 言ってしまえば後には退けない。ふたりが付き合っていることも隠している。琳は絶対に誰にも知られたくはないと、震えるように懇願してきていた。それをこれ以上裏切るつもりはなかった。
「随分、自信満々に言い切るんだな。なんでそうだってわかるんだよ」
 敲惺は黙ったまま、それでも意味深な、不遜な笑みだけは消さないでおいた。
 それを見て高之が訝しげな目つきになる。
「お前、琳に手を出したら、エンジュから出てってもらうぞ」 



                   目次     前頁へ<  >次頁