エンジェルを抱きしめる 26


「構わないさ。けど、そうなれば困るのはそっちだ。メジャーデビューがまた遅れることになるぜ」
 かるい脅しにも平然と答えてみせれば、相手は忌々しげに吐き捨てた。
「……エリシオンの推薦だからって、でかい顔しやがって」
 数週間前、エンジュを辞めていったメンバーから聞いた話だと、高之は琳とふたりきりでエンジュをやりたがっているということだった。
 もしそうだとしたら、本当に自分と迅を切ることに躊躇はないのだろう。多分、それを阻止しているのは、純太郎と大久保のバンドの売り出し方針なのだ。
「あんたは金が欲しいんだろ?」
 目の前の男が、琳を束縛しようとするのは、彼の曲が欲しいからにすぎない。
「ただ、金儲けしたいために、バンド活動をしてるんだろう」
「それが? 売れて金持ちになりたいってのは、誰でも考えることだろ」
「けど、琳はちがう。琳は金儲けのために曲を作ってるんじゃない」
「だからなんだってんだ。あいつだって、売れたいって言ってただろ」
「琳は純粋に、音楽が好きなんだ」
 はっ、と高之が呆れた声をあげた。琳をかばってきれいごとを言っていると思われたらしい。
 けれど高之は琳の本当の望みを知らない。ただ、多くの人に自分の楽曲を聴いて欲しいという、あの金銭の絡まない無垢な望みを。
 琳は、金など高之にくれてやると言っていたのだ。
「その気持ちを利用するな。金儲けがしたけりゃ、他の方法を探せよ。――あんたなら、ひとりでもできるだろうが」
 多少の世辞と皮肉を込めて言ってやる。
 ひとりでやれ、やれるもんならそうしてみろ、という意味でだった。
「曲だって、誰か他の人間に作ってもらえばいい。あんたなら誰の歌だって上手く歌えるだろ。それが無理だってんなら、モデルでも俳優でも、それだけの見た目なら他にいくらでも芸能界で道がみつかるんじゃないか。それで金儲けをすればいい」
 だから琳にこだわるな、と言いたかった。
 琳を自分の手元におきたいのは、金ヅルだからと以前言っていた。他の方法ででも何でも、自分ひとりで稼げるようになれば、エンジュも琳も必要なくなるだろう。
 それに高之は、胡乱な眼差しを寄越してきた。
 ポケットに手を突っ込んで、今度は俯きがちにこちらを警戒してくる。酔っているのか焦点が少し曖昧だった。
 脇に垂らしたレジ袋がガサリと音をたてた。
「――お前さ」
 笑うでもなく怒るでもなく、不可解な顔つきになる。
「アメリカ暮らしが長かったんだよな。――だったら知らないか……」
 何を? と意味が分からず眉根をよせた。
「俺が、ガキのころ芸能界で少しの間、仕事してたってこと」
「……へえ」
「プロダクションに所属して、子役でテレビドラマにも出てたし、モデルもやってた。まあ、この事は、琳も知らないけどな」
 そんな話は初耳だった。しかし、それがどうしたというのだろうか。その見てくれならそういった話があったとしても不思議ではなかった。別に驚くことでもない。
 敲惺は、高之が自慢話でも始めたのかと思った。 
「だから? それなら、そのつてをたどって、もう一度、芸能界で仕事をもらえばいいじゃないか」
「ふざけんなよ。俺は、頼まれたって二度とごめんだね。あんな仕事」
「バンド組んで芸能界に帰るんだったら、また同じような仕事をするってことだろ。馬鹿にするなら、なぜまたそれを選ぶんだ」
 嫌ならもう戻らなければいいのに、そんなに金儲けがしたいのか、それともメジャーにこだわるのにはまだ理由があるのか。
 高之の言いたいことが、敲惺にはよくわからなかった。
「あそこには、俺を玩具にして足蹴にした奴らが残ってる。そいつらを許してないからだよ」
「……?」
「金と権力持ってる奴、それから売れてる奴が強いんだ。あっちの世界は、さ。仕事が欲しけりゃ、この世で一番汚いものだって舐めさせられる」
 自虐的な笑みが浮かぶ。敲惺は、その正気を外しはじめたような笑いから目が離せなくなった。
「エンジュで成功して、俺は奴らを見返してやるんだ」
 嫣然と微笑んで、白い歯をみせてくる。けれど、目だけはまったく笑っていなかった。 
 闇が降りつつある駐車場で、ふたりの距離はそれほど離れてはいない。街灯と店からの青白い明かりの中、メジャーになって金が欲しいという男は、整った容姿に歪んだ笑いを貼りつけたままこちらを睨んでいる。
 その眸は昏かった。
「気に入ったか? 琳より高尚な夢だろ?」
 肩を竦めておどけてみせれば、高之の人もうらやむ外見はかたちをかえて、ずっと頼りなげですさんだ風貌に見えてきた。
「メジャーになるために、琳には俺の外見と喉が必要。俺には琳の曲が必要。俺たちはお前がエンジュに来るずっと前から――五年前からそういう協力関係だったんだ。いわば、共依存ってとこかな。だから今更、俺たちの間に、お前が入り込む隙間なんて一ミリだってありゃしないんだよ」
 敲惺に向かい、今までの琳との関係を説明する。そうしてから、指を突き出して忠告してきた。
「琳には近よるな。あいつは俺のモンだ。――それから、俺にも近づくな」
 手を下ろして、もう一度ポケットにしまうと、吐き捨てるように言った。
「俺は、ゲイは死ぬほど嫌いなんだよ」
 最後に一瞥をくれて、高之は道路に向かって歩き出す。ゆっくりと去っていく後姿を、暗闇に消えるまで見つづけた。
 敲惺はもう、怒ってはいなかった。怒りは消えて、ただ痛ましいとしか感じなかった。
 しばらくすると、コンビニの裏手から琳が出てきた。さっきまで着ていた店の制服を脱いでいたから、バイトは終わったのだろう。声をかけようかどうか迷ってその場で立ち止まり、琳のほうからこちらに気づいてくれるのを待った。
 けれど、琳は周りを窺うこともせず、真っ直ぐ店の前の道路に出た。
 歩道に沿って足早に家路を急ぎはじめる。敲惺にも気づかず、後ろを振り返りもしなかった。きっと、先に帰った高之が気になっているのだろう。
 それを見ていたら、何ともやるせなくなって、話をする気になれなくなってしまった。
 今ここで、琳を呼び止めて話をしたいと言っても、家にいる高之のことを気にして、まともに話し合いに応じないかもしれない。この前は、高之が家に来るからといって、琳は自分を帰そうとした。
 敲惺が見守る中、琳の姿はあっというまに闇に溶けて見えなくなった。それを見送り、肩を落として大きくため息をつく。
 踵を返して、駅までの道のりを歩きはじめた。
 琳の部屋にいくのもやめた。寒さを感じて身を竦ませ、目を閉じれば去っていった恋人の後姿だけが、瞼の裏に残像として焼きついている。
 自分は琳を困らせるつもりはない。傷つけたくもない。ただ、今の状況から救い出して、楽にしてやりたい。そう思っているだけだ。なのに、どうして上手くいかないんだろう。
 高之の元に走っていってしまった琳。敲惺は以前、デビューはできても、あいつはお前を幸せにはできないと琳に告げた。あのとき彼はどう言ったんだろうか。
 確か、――わかってるよ。別に、幸せになんか、なりたいと思ってない――。
 そうだ、そう答えたんだ。微笑みながら、諦め顔でそう言った。
 幸せになりたくない人間なんかいるもんか。きっと琳だって、心の底では幸せになりたいと望んでいるはずだ。
 en-jewelは琳だけでなく、高之をも捕らえた歪んだ檻だ。メンバーは皆、宝石という名の牢獄の中で互いのエゴに振り回されている。純太郎も、自分もそうだ。
 早く琳をそこから連れ出して、自由にしてやりたい。けれど、エンジュは琳の夢という首根っこをつかんで離そうとしてくれない。
 十一月の寒空の下、敲惺はポケットに手を突っ込んだ。音楽を聴く気にもなれなくて、仕方なく、俯いて歩き続ける。
 自分の無力さに歯噛みする思いで、琳の寂しさを想う。
 寒さに震えながら、ひとり駅までの道のりを急いだ。


 ◇◇◇◇


 曲の入りは、琳のキーボードから。パイプオルガンに似せた音色で四小節。
 そこに敲惺のドラムが8ビートで乗せられる。その時に、敲惺はちらと琳の方に目配せする。それが、琳の一番のお気に入りである『HYBRIDISM』のイントロだ。
 交配や雑種を意味する題名をもつこの曲を、敲惺もことのほか気に入っている。雑多な情報の断片で出来た自分らはそこから新しい色を持ち出すと、琳はこの歌に思いを込めた。
 ワンマンライブでは、この歌を最初に持ってきている。
 敲惺と仲違いしてしまった次のリハの日、琳はこの曲の始めにドラムの方を見ることができなかった。敲惺は自分の方を見ていただろうか。次にこの曲の演奏したとき、敲惺はもう琳の方を見てはくれなかった。
 自分から視線を避けたくせに、相手の心が離れると、どうしていいか分からず動揺する。
 琳の弱さを敲惺は許していないのではないか。だとしたら、もう相手の気持ちは離れてしまっているのではないか。
 そうやって何度も思考は迷路にはまり込んだ。
 誰かと付き合うということが初めての琳に、駆け引きなどできるはずもなく、怒らせてしまったのではないかとおろおろして、それ以降、きちんと目を見て話すことができなくなってしまった。
 そうして、数日が過ぎてしまい、敲惺が琳の部屋を訪れることもなく、ワンマンライブの日が迫ってきていた。



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