エンジェルを抱きしめる 27
ライブ前には、仲直りをしたい。
謝りたいけど、そうすればきっと敲惺はまた、琳は謝る必要なんかないと言ってくるだろう。そう言われてしまうと、琳はなんだか自分がひどく意思の弱い人間に思えてきてしまうのだった。
家に帰ればひとり、連絡を待ってため息ばかりになってしまう。
自分から積極的に行動を起こすべきなのか、それとも敲惺からなにか言ってくれるのを待った方がいいのか、それさえもわからない。
ソファに転がって、なにも手につかずスマホを握り締めて毎夜、敲惺のことだけを考え続けた。
敲惺に会いたかった。
ふたりきりで。話をして、笑いあって、抱き合って大きな腕と胸に包まれて、眠りたかった。
ふたりでいる安心感を覚えてしまったから、ひとりでいると不安でたまらない。だからこんなぎくしゃくしたままで、ワンマンライブを迎えたくはなかった。
ソファの上にがばりと起き上がる。
敲惺が、琳に強くなって欲しいと考えているのなら、もしかしたらこちらから話しかけるのを待っているのかもしれない。琳がきちんと、まだ好きだから別れたくないし、仲直りして元のように戻りたいと言えば、それを聞き入れてくれるかもしれない。
たとえ琳のことを、もう好きでなくなっていたとしても、友達にだったら、また――。
「う……」
自分の考えに落ち込んで、思わずうめき声が出た。
琳に愛想をつかして、嫌いになっている可能性だって大なのだ。そうしたらもう、友達にも戻れない。
高之のボイトレのレッスン料を琳が払っていると知ったときの、敲惺の呆れた顔。
そのあと、高之が泊まりに来たいといってきたとき、琳は混乱した頭で、高之を優先させてしまった。あんなことをされて、腹を立てない恋人がいるはずがない。敲惺の怒りは当然だった。
初めて、自分のことを好きだといってくれた相手。傍にいたいと言われて、自分と、自分の歌を大切にしろと教えてくれた。年下なのに琳よりも物事が分かっていて、そうして誰よりも優しかった。
失いたくはなかった。もう一度、一緒の時間を過ごしたかった。
ワンマンライブ前の、最後のスタジオ練習のある日、琳は自分の方からはっきりと、好きだから傍にいたいと伝えようと決めた。
明後日にライブ本番を控え、最後のスタジオ練習が渋谷のいつもの貸しスタジオで行われた。
二時間しっかり音合わせをして、そのあと反省会と打ち合わせを兼ねて琳の部屋に五人で集まる。夕食をとりながら、細部までメンバーと純太郎で話し合いを続けた。
それが終わったのはいつものように十一時ごろで、次の日に仕事を控えた迅と、終電がある敲惺、そして高之と純太郎も明日は学校があるということで、四人は揃って帰り支度をした。
玄関まで向かい、挨拶をして順に部屋を後にしていく。最後に残された琳だけが、誰もいなくなった玄関先にいつまでもぼんやりと立っていた。
敲惺が、戻ってきてくれないかな、となんとなく思い続けた。ずっと前、この部屋でメンバーと揉めたとき、敲惺は後からちゃんと戻ってきて、部屋のインターホンを押してくれた。
もう一度、軽い電子音が鳴らないものかと、琳はその場にしゃがんで待った。
ポケットからスマホを取り出す。立ち上げて画面を見ながら、メッセージを送ろうか、電話をかけようかと迷った。
今、連絡を取らないと、敲惺は家に帰ってしまう。戻ってきて欲しい。けれど自分から連絡を入れるのは躊躇ってしまう。拒否されたらどうしようという不安が湧いてくるからだ。
相手から来てくれたらいいのに、と思いながらそれでも、部屋のベルは鳴りそうになかった。
メンバーが部屋を出てから十五分ほど経って、もうそろそろ向こうも駅に着いて電車に乗り込んでしまうだろうという時間になって、琳はやっと敲惺に電話をする決心がついた。
それが萎まぬうちに、勢いで番号を呼び出してかける。
暴れだした心臓を手で押さえながら、玄関先ですわり込んだまま、琳は相手が出るのを待った。
『はい』
スリーコールで相手と繋がる。
「こっ、敲惺」
上擦る声で、呼びかけた。
『――琳』
「今、どこ? もう、電車乗った?」
『いや、まだ。今ホーム。もうすぐ電車くるところだよ』
「あっ、あのさっ」
何を言おうか考えてなかったから、すぐ言葉に詰まってしまった。
電話の向こうから、電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてくる。あっという間に、列車の停まる音が響いてきた。
中に乗り込んでしまったらもう電話は使えない。
その前に、と琳は勢い込んで話しかけた。
「敲惺っ、あのさ、この前は、おれが悪かったよ。おれが、怒らせるようなことしたから、あんなことになって、――ごめん。だから、もう一度、ちゃんとさ、話をしたいんだ」
発車を知らせるメロディが流れてきた。人ごみが移動する気配がする。
『すぐ戻る』
それだけ答えて、電話は切れた。
琳はスマホを耳に当てたまま、大きく息を吐き出した。
今まできついビートを刻んでいた心臓が、痛みさえ感じはじめている。琳は俯いて、それに耐えた。
やっぱり謝ってしまった。けれど、今回のことは本当に自分のほうが悪いと思っている。だからこれでよかったのかもしれない。
「よかったんだ……」
敲惺は、すぐに戻ると言ってくれた。それに安心したら、涙がじわっと滲んできた。
琳はスマホをポケットにしまうと、玄関の框でしゃんがんだまま敲惺が来てくれるのを待った。
目をとじてしばらくすると、外廊下の向こうから近づいてくる足音が聞こえてきた。きっと琳の部屋の前で止まって、それからインターホンが鳴らされる。そうしたら、ドアをあけて迎えよう。
急ぎ足のその相手が、琳の部屋の前まで来るのを待っていると、いきなり前触れもなくドアが開いた。
びっくりして顔をあげると、頭上に驚いた顔の敲惺がいた。
「……琳」
「あ……」
涙目で、放心したようになっていた琳は、慌てて立ち上がった。
鼻のあたりを手で拭うと、そのまま力いっぱい引きよせられ抱きしめられる。
身体がすっぽり包まれると、夜気と敲惺の匂いがふわりと漂ってきた。馴染んだ甘い香りに鼻先をくすぐられる。それに心の底からほっとさせられた。
戻ってきてくれたんだと思えば嬉しくて、琳は敲惺の背に手をゆっくりと回した。
「――敲惺」
「うん」
「……ごめん。この前のことは、おれが悪かった。怒らせるつもりはなかった。けど、あんなことになって……あとから、すごく、反省した」
「……」
敲惺の顔は、琳の首元に埋められていた。だから表情はわからない。
返事がないことに、琳はにわかに不安になった。もしかして、やっぱりまだ怒っているのだろうか。
「だから、ボイトレのことは、ちゃんと高之さんに話すよ。ワンマンライブが終わってから。今は、明後日のことだけ考えたいから。それから、それから……、ふたりのことはまだ、伝える勇気はないけど、けど、これからは、ちゃんと敲惺のことを優先するから――」
「わかった」
「ほんと、悪かったよ」
「わかったから、もういい」
「……やっぱ、怒ってる?」
「……」
「呆れてる?」
琳を腕に抱いたまま、敲惺は大きく深呼吸をした。琳は答えを待って、じっと動かずにいた。
「琳」
「……うん」
掴んだ腕に力が込められる。
少し息苦しさを覚えて、それでも、その感触を心地いいと感じた。
「怒っても、呆れてもいない。ただ、――すごく愛してる」
「……」
未知の告白に、なにも考えられなくなった。
相手の肩越しに、明るくて、白い天井と壁が見えている。それに視線を向けながら、ぼんやりと霞がかった頭で、何度か瞬きしながら、言われた言葉がよく飲み込めなくて、それで、ただ浅い呼吸だけを繰り返した。
「……敲惺」
「うん」
「お……おれ」
「うん」
「もう離れたくない」
「うん。――わかった」
相手の上着を強く握りこむ。その手が震えた。
傍にいて欲しい。離れたくない。ずっと一緒にいたい。こんな気持ちは敲惺に対してだけだ。
敲惺の手のひらが琳の髪に忍んできて、ゆっくりと梳くように撫でた。
そのまま顔をよせてきて、かるく口づける。顔を離すと、琳が泣いていないか確かめるように、目の際に指を沿わせた。
涙は出ていなかった。ただ、頬がひどく赤くなっていて、そのことが恥ずかしかった。
敲惺はスニーカーを足先だけ使って脱ぎ捨てると、琳の膝裏に手を入れて軽々と抱き上げた。
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