エンジェルを抱きしめる 22


 翌朝、琳が目覚めたとき、敲惺はまだ眠っていた。
 琳は相手を起こさないように、腕枕の中からそっと身を起こした。見下ろす敲惺の寝顔は、どちらかといえば少年っぽい。少しの間、その鼻筋の通った精悍な顔を堪能してから、ベッドを降りた。
 服を着て寝室を出て、まずはスマホを探す。リビングのローテーブルの上におかれていたそれを手に取ると、メッセージを確認した。
 昨夜は一次会で帰ってきてしまっていた。あの後、どうなったのか純太郎から知らせがきていないか見てみる。スマホはメッセージを受信していた。
 それはやはり純太郎からで、気分が悪かったのは治ったか、という言葉と共に、起きたら電話が欲しいとあった。
 なんだろうと気になって、折り返し連絡をいれる。
「純太郎?」
『――やあ。琳、おはよ。あのあと大丈夫だった?』
 えっ? と焦って、気分が悪いから先に帰ると言ったことを思い出した。
「あ、うん。大丈夫だったよ……。で、なにか用事あった?」
 壁にかけられた時計を見上げる。午前九時だった。
 純太郎はまだ寝ていたのかもしれない。声が篭っていた。
『うん、それがなんだけどさ』
 電話の向こうで、相手がすこし唸る。ベッドから起き上がったようだった。
『あのあと、二次会に行ってさ、大久保さんとも話をしたんだけど』
「――うん」
 大久保の名前が出て、胸の辺りが泡立つように反応した。なんの話をしたのかと先が気になる。
『昨日のライブ観てさ。――新曲とか、演奏とかさ。エンジュがこれだけ安定してきたなら、ってさ』
「うん」
『今度の、社内の新人発掘会議で、エンジュを推してくれるって』
「え? そ、それって……」
『ん。会議が通れば、本格的に、メジャー契約の話に移れると思う』
「ほんとに……」
『うん。よく頑張ったな、琳』
 琳は思わず、大きく息をついた。 
『ま、俺も頑張ったんだけどな』
 電話の向こうで純太郎が笑う。
 たしかに、純太郎の助けがなければここまで来るのは無理だったろう。エンジュを売り込むために、親密に大手レコード会社のプロデューサーと連絡を取り続けてくれたのはマネージャーの純太郎だったからだ。エンジュが壊れかけたときも、外部にずっと目を向けながら内側の建てなおしの助力もしてくれていた。
「ありがと……純」
『うん。じゃあ、そういうことで。これからガンガン、ライブいれてくからな。おやすみ』
 それだけ言って、電話は切れた。おやすみと言っていたから、これからまた寝るつもりなのだろう。琳は手にしたスマホを茫然と眺めた。頭が真っ白になって、なにも考えられなくなった。
 メジャーの話が本格的に出ている。レコード会社の会議にかけられて、それが上の承諾を得られたら、今度は、契約の話に移ることになる。
 琳は自分の手が震えだしたのがわかった。
 ――本当に、夢が、実現する。
 ビデオで観たフェスタや、観客でしか行ったことのない武道館や、テレビやラジオや、ネットでのニュースや……。
「琳」
 後ろから声をかけられて振り向くと、寝室から出てきた下着姿の敲惺が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「……敲惺」
 放心したように、その姿を見返す。立ちつくす琳に、何があったのかと心配げな表情で近づいてきた。
「どうした?」
「……どうしよう。敲惺」
 状況がわかっていない敲惺は、琳が握りしめていたスマホを見下ろすと、震える手を支えるようにして掴んだ。
「メジャーデビューの話が、出てるって」
「えっ」
「大久保さんが、今度の社内会議で、エンジュのデビューについて推薦するって」
「本当に?」
 琳は敲惺の手をすり抜けて、しゃがみ込んだ。
「……どうしよう、おれ」
 震える腕で、自分自身を抱え込む。
「うれしい、怖いぐらい」
 瞳を揺らせて呟けば、敲惺が傍らに膝をついてきた。
「よかったな、琳」
 労わるように優しく、肩に手をおいてくる。「うん」と返事をすれば、琳は逸りだした気持ちを抑えることができなくなって、武者震いのように小さく身体を震わせた。敲惺はそんな琳の背中を、そっと撫でさすった。
 顔を上げれば、その表情は琳と同じように喜んでいる。けれど、どこか心配げだった。
 琳はその瞳に宿る影の意味に気がついた。琳も同じことを考えていた。心の奥底で。
「……敲惺」
「うん」
「おれらのこと、絶対、誰にも知られたくない」
「うん、わかってる」
 敲惺は、納得済みだというように頷いた。言葉にしなくても、その理由は明らかだった。
 en-jewelのリーダーは、決して、自分たちのことを認めたりはしないだろう。ゲイを毛嫌いし、気に入らない相手を傷つけることに躊躇のないあの人は。
「……ごめん、敲惺」
「琳が謝る必要なんて、なにもない」
 琳は自分の腕の中に突っ伏した。
 敲惺はそう言ってくれるけど、寝室に鍵をつけて、付き合いたいと望んだのは琳のほうだ。
 もし、敲惺の気持ちを受け入れたりしなければ、エンジュの人間関係にも巻き込まずに済んだかもしれない。ただのドラマーとして、エンジュのデビューに立ち会えたかもしれない。琳が自分の気持ちを隠し通していれば、敲惺は高之に敵対することもなかったかもしれないのだ。
「琳」
 頭上から、暖かな声が降りてくる。
「知られたくない理由はわかってる。心配しなくてもいいから」
 大きな手が、髪に触れた。
「琳が強くなれるまで、俺は待つよ」
 ――自分は弱い。
 琳はそのことを痛感した。
 高之を怒らせたくなくて、バンドを壊したくなくて、デビューのために、敲惺を犠牲にしている。敲惺は、こんなにも琳のことを大切にしてくれているのに。
 けれど今まで築いてきたものを、このことで壊してしまいたくはなかった。エンジュのメンバーであり続けることと、敲惺の恋人であること。どちらが大切かと言えば、琳にとってはどちらも同じほど価値の高いものだ。
 自分にとって、なにが一番大事なのか。なんのためにバンド活動をしているのか。誰のために楽曲を創り出し、どこを目指しているのか。
 今まではずっと、それはただ純粋に好きな音楽のためだけだったのに。
 琳は、自分自身の気持ちが分からなくなり始めていた。



「十一月はライブが二回、そのうち一回がワンマンライブ。会場は下北沢のMec。十二月は三回、クリスマスライブは昨年と同じLIZERENTで」
 純太郎が手帳を見ながら説明する。それを残りの四人で琳の部屋で聞いた。
「で、来年はまた地方にも行きたいんだが、まあ、それはおいといて。先にワンマンライブの曲決めしないと、あー、あと、今までの会計報告はメンバー専用のブログにてチェックしといて下さい」
 ペンを片手に話し終えると、皆に向かって顔を上げる。
「俺からはこれだけ。で、なにか質問は?」 
 有能なマネージャーに意を唱える者はいなかった。
「大久保さんとの話はどうなってんだよ」
 ペットボトル片手に、高之が訊いてくる。
 この前、大久保が見学をしに来てくれたライブから一週間が経っていた。
「社内会議はあと一週間後。それで、上のほうの了承を得られたら、具体的な契約の話がこっちにくる。それから契約内容をどうするか、話し合いに移る、って流れかな」
 ふうん、と高之が頷いた。
「まだまだこれからなんだな」
「そう。まだ、今の段階ではなにも決まっていない。だから、高之、このことは誰にも喋るなよ」
「え、なんで?」
「こっちのほうから勝手なうわさ流して、それに尾ひれがついて変な風に広まって向こうの心証悪くしたら、デビューの話も流れるぞ」
「ちょっとぐらいなら大丈夫なんじゃないの?」
「おい、まさかもう、女の子とかに話したんじゃないだろうな。お前、酒入ると口かるくなるし」
「誰にも言ってねえよ」
 肩を竦める高之に、純太郎はピリピリした表情で、絶対に言うなよ、と念を押した。ここのところ忙しくて、デビューに向けて高之の手綱を引き締めるのも、以前より余裕を失くしている。
「酒入るとヤバくなるのは、みんな一緒さ。各自気をつけるしかない」
 迅が横から助け舟を出した。琳もそれに頷く。
 酒を禁止されている敲惺以外は、皆が行動に気を配らなければいけない時期にきていた。



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