エンジェルを抱きしめる 番外編 最終話



 ◇◇◇


  翌朝、敲惺が目覚めると、琳はまだ腕の中で眠っていた。可愛い寝顔を飽きずに眺めていたら、それを感じ取ったかのように、ゆっくりと瞼をあげてきた。
「おはよう」
 声をかけると、寝ぼけ眼で「はよう……」と答えてくる。敲惺の肩のあたりに目元をすりつけて、まだ起きる気はないのか、胸に手をまわしてきた。
「琳」
「んん……」
 温かい上掛けの下で、足も絡めてくる。
 甘えるようにしてくるのは、心に引っかかることがあるせいだろう。一年近く一緒にいるから、相手の考えていることも読めるようになってきている。
 まどろむ恋人の肩を抱きよせて、優しく呼びかけた。 
「琳」
 寝ぐせのついた髪に頬をのせる。そうして敲惺は昨夜、決めたことを口にした。
「俺さ、やっぱりアメリカに行くことにするよ」
 琳がついと顔をあげた。敲惺をのぞきこみ、一瞬、ほんのわずかだけれど悲しげな表情をする。
 けれどすぐに、にっこりと強がるような笑顔になった。
「……そか」
 口端に力をこめて、一生懸命、上に持ちあげようとする。
「うん、そか。……そだね。そのほうがいいよ。うん、よかった。……決めてくれて」
 その様子を眺めながら、敲惺は琳の頬に手をあてた。
「ホントは琳もアメリカに連れて行きたいんだよ。離れるなんて、考えたこともなかったからさ」
 琳の虹彩が揺れている。口元がへの字に下がってしまった。
 宥めるように、手の甲で頬をさする。
「けど、ビザとか色々面倒そうでさ。今は時期的に、テロとか警戒してて手続きも難しいんだ。向こうで一緒に暮らすのは、無理みたいなんだよ」
「……うん」
 琳は今まで、パスポートも取ったことがない。だから、ビザの話もよくわからなさそうな顔をした。
「だから、マネージャーに頼んだんだ。ツアーに出るときには琳も同行させて欲しいって」
「えっ」
 瞳が大きく見開かれる。不意を突かれて、ぽかんとした顔になった。
「アメリカには観光客として年間90日間は入国できるから、ツアーだけなら、観光客としてバンドやスタッフらと共に参加できる」
「……」
「琳、一緒に、行こう。アメリカに」
 瞬きもできず、敲惺を見返している。
「え? ……ええ?」
 何を言われたのか理解できないという、間が抜けた顔になった。それが可愛くて、敲惺は目を細めて微笑んだ。
「昨日の夜、誘われてたバンドのマネージャーに電話したんだ。琳が寝てから」
「……う、うん……」
「その人、祖父ちゃんが生きてた頃からの付き合いの人で、俺が子供の時から家族みたいに親しくしてもらってた人なんだ。彼のバンドのメンバーも顔見知りだし、スタッフも昔から知ってる人が何人かいる」
「うん」
「その人に、参加するなら、ミュージシャンの恋人も一緒に連れて行きたいって頼んだんだよ。彼にアメリカの音楽を生で見せてやりたいからって」
「……」
「そしたら、俺の恋人なら、ぜひ連れておいで、って言ってもらえてさ」
「……本当に?」
 うん、と答えながら、けれど、本当の所は違っていたのだった。
 敲惺はマネージャーに、日本でミュージシャンを目指している恋人が色々あって落ち込んでる。今はできるだけ離れたくないし、彼を元気付けてやりたいからツアーに一緒に連れて行きたいんだと相談したのだった。
 マネージャーは、琳が敲惺にとってどういう相手なのかを尋ねてきた。だから敲惺は、ふたりの関係を出会ってから今日まで話して聞かせて、琳がどんな人間か、彼の作る曲がどういうものかを丁寧に説明した。ネットで作品をフリーで聴くこともできると付け足した。
 話し終わると、マネージャーは少し考え込んでいたが、ひとつ大きく頷いて、オーケイそういう理由なら連れておいで、君の大切な人なら歓迎しよう、と快く引き受けてくれたのだった。
 だがその分、コーセイにはしっかり働いてもらうからね、とも言われたけれど。
「ツアーでは、琳はスタッフと一緒に行動するんだよ。泊まるときはふたり部屋でっていう約束も取りつけた。マネージャーとは付き合いも古いから、俺がゲイってのも承知してる。スタッフにもゲイはいるから気を使う必要ないし、何にも心配いらないよ」
 いつも大きな瞳が、さらにこぼれ落ちそうになっている。びっくりさせたことが嬉しくなって、ひたいにキスをした。
「だから、一緒に、アメリカを横断しよう」
「で、でも……」
 琳が顔を引き離して、混乱したように話し出す。
「お、おれ、英語しゃべれない。それに、貯金だってそんなにないし」
「英語は聞いて話してりゃ、すぐにわかるようになるよ。向こうじゃ犬も赤ん坊も英語を理解してんだ。琳が覚えられないわけないだろ。金だって、どうにだってなるさ。足りなくなったらギャラの前借りでもなんでもすればいいんだし」
「けど、第一、大久保さんの仕事はどうしたら……」
「大久保さんには俺から話すよ。アシスタントの仕事は、スカイプ使えば離れてたってできないことないだろ?」
「……」
「なんとかなるよ。そんなの心配のうちにはいらない」
 ぽかんと口をあけたまま、敲惺の胸の上に手をおいて、固まっている。
「一緒に行こう。琳」
 肩を抱く手のひらに、力を込めた。
「俺、琳に向こうで色んなもの見せてやりたい。いままで行ったこともないところに連れてってやりたいし、沢山のアーティストやクリエイターたちにも会わせてあげたい。アメリカは日本とは違うから、きっと新しい、素晴らしい経験がいっぱいできるよ」
 もういちど、優しくひたいに口づけた。かるく音をたてて。
「いい歌ができる。今よりもずっと」
 目を見つめながらささやけば、黒い瞳がみるみる潤んでいく。
「俺が保障するよ」
 微笑むと、琳はゆっくりと頭を敲惺の胸に預けてきた。泣きそうになったのを見られたくないのかもしれない。
「準備期間や、ツアー以外のときは、なるべくオフを取って琳に会いにくる。離れてるってのは感じたくないんだ。だから、琳も何かあったら、すぐに俺を呼んでよ」
 やわらかな黒髪を撫でながら、言い聞かせるようにする。琳はいつも色んなことを我慢して自分の中に閉じ込めてしまうから、それだけはしないで欲しい、という思いからだった。
「……うん」
 震えるように頷いたのが、つむじが小さく揺れるのでわかった。
「琳がさ、いちばん近くで、俺のプレイを観るんだよ」
「……ん」
 声音に明るさが戻ってきている。胸の上を、安堵の暖かい吐息がかすめていった。
 琳が喜んでいる。
 それが何よりも嬉しかった。


 ◇◇◇


 翌日、敲惺は大久保に会ってその話をした。大久保は敲惺の計画に驚いたけれど、すぐに賛成してくれた。
「若いうちには、色んな所へ行って、色んなもの見てきたほうがいいからな」
 琳のアシスタントの仕事も、その間は融通してくれるという約束も取り付けた。琳の才能を、大久保も買っている。だから手元においているのだし、その成長を見守るつもりでいてくれてる。
 数日後には、ふたりでパスポートの申請に行き、大きなスーツケースもひとつ購入した。
 敲惺は渡米後、しばらくマネージャーの屋敷に滞在させてもらう予定になっている。その後、住処を探すつもりにしているのだが、その時には琳を連れて行って、マネージャーや皆に琳を紹介するつもりでいる。
 琳にそのことを伝えたら、慌てて英会話の教材を買いに走って行った。
 詰め込む荷物を選んだり、手続きに翻弄されながらも、琳の瞳は以前と違って生き生きとしているのが感じられる。
 新しい出会いが、きっと、琳を解放してくれるだろう。
 リビングで、スーツケースを横に立てて、琳がキーボードに向かっている。敲惺はソファに雑誌を手に横になっていた。
 明るい午後の日差しを浴びて、琳が鼻歌をうたっていた。それは、敲惺がまだ聞いたことのないメロディだった。
 目を閉じて、その旋律を追っていく。爽やかで、空に伸びていくようなアップテンポだ。
 エンジェルが、小さな音楽の天使が、琳の元に戻ってきている。
 琳の中で、羽根を震わせて。胸をふくらませて、時を待っている。
 いつの間にか、口元には笑みが刻まれていた。
 彼が翼ひろげて飛び立つそのときまで。これからも敲惺は、ずっとそばで見守るつもりでいる。



                             ――END――



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