エンジェルを抱きしめる 01


 ◇Ⅰ◇


「このCD聴いてみてくれないかな」
 エリシオン・ミュージックのプロデューサーである大久保(おおくぼ)から渡されたのは、一枚の、六曲入り自主制作盤のCDだった。
「聴いたら感想を聞かせてほしいな。できるだけ早く」
「わかりました」
 さほどの期待もなく、青芝敲惺(あおしばこうせい)はそれを受けとってショルダーバッグに詰め込んだ。
 そのまま海老名の自宅に帰った敲惺は、倉庫兼ガレージの隅におかれたドラムセットの前に座り、古びたCDラジカセを引き寄せた。借りた自主制作盤をそこに放り込む。
 小さなスピーカーから、音質のよくない音楽が、すぐに溢れだしてきた。
「――?」
 一曲目から尖ったオリジナリティの高い歌が流れ出る。敲惺は一瞬にして、耳を奪われた。
 聴いたこともない洗練されたメロディが、アマチュアにしては出来上がった声のボーカルを通して、詞に意味を持たせて響いてくる。
 敲惺は、そこではじめてCDが入っていたパッケージを確認した。
 ――『en-jewel(エンジュエル)』。バンド名はそう書かれていた。
 六曲すべて聴き終わったところにスマホが鳴る。大久保からだった。
『どうだった? 渡したCD』
 こんなにすぐに連絡をとってくるとは、大久保も早く感想が聞きたかったらしい。
「いいっすね」
『だろ? そこのバンド、この前、メンバーが大量に抜けて、新しく人を募集してるんだよ』
「そうなんですか」
『で。どう? 敲惺、よかったらドラムでやってみないか』
 手にしたCDをしげしげと眺めまわす。曲はいい感じかもしれない。胸躍る何かが内包されている気がする。
「考えさせてください」
『おっけ。連絡待ってる』
 通話を終えて、もう一度パッケージを確認する。作詞作曲には、『RINN』と印刷されていた。
「リン……」
 敲惺は、その涼やかな名前を、舌の上でかるく転がしてみた。 



 ◇◇◇◇



 今日は朝からずっと高之(たかゆき)の機嫌が悪い。
 ピリピリしているのが横にいてもよくわかる。
 舞園琳(まいぞのりん)は、手にしていたミネラルウォーターのボトルを、そっとテーブルの上に戻した。
 六人がけのテーブルの向かいに座る、先輩である江口高之(えぐちたかゆき)の横顔をうかがうように見やる。
 整った端正な顔立ちが、神経質に引きつれていた。
 いつもなら、ちょっと笑うだけで周りにいる女の子たちすべてを魅了してしまうほどのオーラを放つ形よい二重の眸も、人工的に作ったのかと思わせるぐらい真っ直ぐに通った鼻筋も、薄くてドライな笑みを刻む唇も、今は出来のよすぎるマネキンのように表情がない。
「おい、エンジュの高之がいるぜ」
 背後から、押し殺したようなささやき声が聞こえてきた。
「げ。まじかよ、どする? 場所変えるか」
 こそこそと抑えた会話が耳に入ってくる。
 琳の視界の端に、人影が三つ映った。そのうちふたりはギターケースを抱えている。きっとどこかの噂好きのバンドのメンバーだろう。高之はそちらを見ようともせず、無視を決め込んでいた。琳もそれに倣って、素知らぬふりをする。
 こんな風に避けられるのは今に始まったことではない。一ヶ月前のメンバーの大量脱退騒ぎから、エンジュはこの界隈のバンド仲間の間では、噂の的となっていた。 
 九月も半ば、東京渋谷区にあるミュージシャン用レンタルスタジオの受付の横にあるロビーで、琳と高之は一番奥のテーブルに向かいあって座っていた。近くにある大きなガラス窓からは午後の明るい陽が差し込んでいる。
 けれど、ふたりの座った一角だけは、先ほどからずっと暗く緊張したムードが漂っていた。
 琳と高之は東京を拠点として活動を続けるインディーズロックバンド、en-jewel――通称エンジュのメンバーで、琳はそこでキーボードを、リーダーの高之はボーカルを担当している。
 エンジュはアマチュアバンドであるが、今までにインディーズバンドを対象に開催されたコンテストで二度の優勝と何度かの優秀賞を受賞し、インディーズシーンでは広く名の知れたバンドだった。
 メジャーデビューも近いと噂されているほど、実力も伴っている。エンジュは結成から五年が経っていたが、その間に自主製作のCDを三枚リリースしていて三ヵ月後には、他のバンドと組んで行うライブとは別の、en-jewelのみで行うワンマンライブも予定していた。
 マネージャーの滝純太郎(たきじゆんたろう)が、会場である三百人収容のライブハウスを予約し、新アルバムである四枚目のCDを録音し終わったところで、しかし、五人いたメンバーのうちの三人が突然、脱退してしまっていた。
 それが、一ヶ月前の出来事だった。
「遅っせえな、純太郎のやつ」
 高之が苛ついた様子で、缶コーヒーを口にする。
「あと五分して来なかったら、俺、帰るわ」
 缶を空けて、近くのゴミ箱へ音を立てて投げ入れる。受付の女の子が、びっくりしてこちらを振り返った。
 それを横目に、琳は仕方なくポケットからスマホを取り出し純太郎にメッセージを送った。今どこにいるのかと訊けば、こちらに向かっているとすぐに返事がかえってくる。
「今、こっちに向かってるそうです」
「あとどれぐらいで着くの?」
「きいてみます」
 琳がスマホにメッセージを打ち込もうとしたその時、高之の手が伸びてきてそれを奪い取った。
 画面を見ながら、『遅えんだよクソ。俺は帰る。後はお前らで勝手にやってろ』と打ち込んで送信すると、琳にそれを返してきた。
「高之さん、おれが打ったと思われちゃいますよ」
 琳がため息まじりにそう告げると、「なあ、一緒に帰ろうぜ」と身を乗り出して言ってきた。
「純太郎が苦労して見つけてきた新メンバー候補連れてくるんですから。勝手には帰れません」
「俺はそんなもん、いらねえって再三いってただろ?」
「エリシオン・ミュージックの、プロデューサーの大久保さんの推薦なんですよ。断ることはできないです」
「エンジュは、俺と琳のふたりで十分いけるって前からいってるじゃねえか。ばっくれようぜ」
「高之さん……」
 目の前で、上目づかいで見てくる男を、琳は弱った表情で見返した。
 琳は今年二十二歳になるが、顔つきが幼く、一見すると高校生のように見える。身長も百六十三しかなく男にしては小柄だった。瞳は大きく丸顔で頬のラインもまだ柔らかかったから、ファンの女の子からはいつも『可愛い』と評されている。
 高之が絵に描いたような『イケメン』と言われて騒がれているのとは対照的だった。琳がその首を力なく横に振ると、高之は手を伸ばして琳のペットボトルを脇によけた。
 そうしてから、琳の細い指に自分の手のひらを重ねてくる。琳の顔から視線を外さないまま、ゆっくりと人差し指から順番に玩びはじめた。
 口元は笑っている。けれど、目はそうではなかった。
「琳がシンセで俺がギターとボーカル。デュオで……さ。いいと思わないか?」
 受付の女の子がこちらを見ている。琳はそっと手を引いてそれから逃れた。瞳を伏せたまま、それはできないと言うように、もういちど首を振る。
 その時、受付横の自動ドアがひらいて男がひとり急いだ様子で入ってきた。
 続いてあとからふたり。琳がそちらを見ると、さっきから待ちわびていた、マネージャーの純太郎だった。眼鏡をかけて、グレーのシャツを羽織ってジーンズを穿いた、いかにも学生っぽい格好の純太郎は、琳たちを見つけると早足でこちらに向かって歩いてきた。
「悪い。だいぶ待った?」
 笑顔でふたりに話しかけてくる。
 それに「待った待った。すんげえ待たされた」と、高之が不機嫌もあらわに答えた。
 純太郎はいつものこととその言葉をかるく受け流して、ふたりのテーブルの横に立った。エンジュでもう四年もマネージャーを務めている純太郎は、高之の性格をよく把握していて、それを往なす術も身につけている。
「悪いな、大久保さんに会って話し聞いてからこっち来たから」
 それほど悪びれた様子もなく、純太郎は遅れた事情を説明した。声は弾んでいて機嫌がいい。琳と高之とは対照的に、純太郎はうきうきとした様子で一歩身を引き、自分の後ろに立つふたりの人物を琳たちの前に導いた。
「えっと。紹介するよ。エリシオン・ミュージックのプロデューサー、大久保さんからの推薦をうけたうちの新しいメンバー候補、一色迅(いっしきじん)さんと、青芝敲惺(あおしばこうせい)くん」
右手を差し出すようにして、笑顔でふたりを引き合わせる。
 琳は椅子から立ち上がって、小さくお辞儀をした。しかし、向かいに座った高之はテーブルに肘をついたまま、上目で品定めするようにそちらを見ただけだった。
「一色迅です」
 純太郎の右側に立つ、長髪で痩せた三十歳前後の目の細い、けれど穏やかそうな表情の男性が挨拶をした。
「こちらの迅さんは、ギター担当です」
 純太郎の補足に、迅と呼ばれたその人は、かるく頷く。
「で、こっちが、ドラムス担当の青芝敲惺くん」
 迅のななめ後ろに、背が高く体格の良い青年が控えていた。髪はソフトモヒカンのベリーショート、顔つきは少し日本人離れしている。彫りが深く整っているが、なぜかひどく不機嫌な顔をしてこちらを睨んでいた。
 琳はどうしたのかとその視線を追った。見下ろす先には、座ったままの高之の姿がある。なんで座ったままなんだよ、とばかりに敲惺がガンを飛ばすと、高之が鼻で笑った。
 ――まずいな、最初からこれか。
 琳がどうしようかと純太郎のほうを窺うと、純太郎も同じような渋い表情を浮かべて、敲惺と高之を見ていた。



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