エアキス 05
呆気にとられた顔になって、こちらを見返す。狩谷はさらに前のめりになって言った。
「仕事も真面目で、業績もちゃんとあげてる。人当たりもいいし、うちの部署でお前を嫌ってる奴なんてひとりもいない。女子社員は全員お前に惚れてる。俺だって、他の男に取られたくないって思うほどだ」
「――は?」
瀬田川が驚きの声をあげる。
え? と狩谷も目をむいた。――今、自分は何を言った?
「……」
怪訝な表情になった相手が、じっとこちらを見つめてくる。ふたりの間に沈黙が流れ、やがて瀬田川がボソリと言った。
「お前、見合いするんだよな?」
「……」
狩谷のさっきまでの饒舌がピタリととまる。
「今まで付き合ってたのも、女の子だったよな、たしか。前に言ってたし」
「見合いはやめる」
キッパリと言って、マスクの下で口を引き結んだ。
「断って、もうそんなことはしない」
「……なんで」
「今を逃したら、もう、俺にはチャンスがない気がするから」
「は?」
惚れた男が目の前で泣いているのに、このまま自分を偽って生きていくのは嫌だ。そうして、他の男にこいつを渡すのも絶対に嫌だ。
狩谷は椅子のキャスターをギリリッと鳴らして相手に近づいた。
間近にやってきた男に、瀬田川が目を大きくひらく。
「瀬田川」
名前を呼んで、じっと瞳を見つめた。
「……」
当惑だけが相手の顔にある。一体、どういうつもりかと疑念で一杯になっている。
揺れる瞳は、涙の名残で濡れていた。
砡(ぎよく)のように透明感がある眼(まなこ)は、じっと眺めていたら奥まで見通せそうだ。
狩谷はもっとよく見たくて、さらに椅子を前に進ませた。
互いの顔が近づき、睫の数までわかる距離になる。
瀬田川は驚きの表情のまま固まっていた。狩谷が他人の距離を越えて、パーソナルスペースまで踏みこんでくるのを茫然と眺めている。何が起こっているのか、まったく理解していない様子だ。
そんな表情に惹かれて、手を伸ばし、瀬田川の耳の下に触れる。
ちょうど顎の終わりの部分、マスクの紐がかかったそこに指を忍ばせた。
細い首筋が、ぴくりと反応する。けれど、逃げようとはしなかった。
――ソーシャルディスタンス。
って、何だっけ。
狩谷は使い捨てのサージカルマスク。瀬田川は顔にフィットするタイプのグレーのマスク。これを外したら、やっぱりまずいのか。
「……」
訝しむ相手に、顔をゆるく傾けてよせていき、触れそうになった直前でとめた。キスしたいという望みを視線に託し、相手の虹彩を覗きこむ。
「……狩谷?」
大きな黒い瞳は、疑問と戸惑いに満ちている。どうしてこんなことをするんだと、問いかけている。その眼差しを絡め取り、まぶたに力をこめて、ゆっくりと目を細めた。
――お前のことが、好きだから。
そう、瞳で語りかけように。
狩谷は目線を下に移し、唇のある場所でひたととめた。
グレーのマスクの下にあるものを想像すると、自分の目元が熱を帯びる。と同時に腹の底から欲望が形を持ち始める。
生まれたばかりの男への情欲を、隠すことなく眼差しにのせて、相手を射止める。
するとやっと瀬田川は狩谷の意図を理解して、身体を大きく強張らせた。
相手の目つきがみるみる変わっていく。
「……狩谷」
瀬田川の声が震える。
「うん」
囁き声で応える。
「……嘘だろ」
「嘘じゃない」
それだけで、言いたいことは伝わった。瀬田川の悲しみに沈んでいた表情が、憂いを吹き飛ばし、新たな嵐に翻弄され出す。
今まで気にもとめなかった目の前の相手が、実は人間で、男で、恋愛対象となり得る人物なのだと、初めて気がついたかのように。
「そんな」
目のきわが、先刻と違う朱に染まっていく。艶っぽく、したたるような色気をにじませて。
戸惑いつつも目が離せずにいる瀬田川は、見たこともないほど可愛い。今まで知らなかった魅惑的な側面を発見して、狩谷は息が苦しくなった。邪魔なマスクを取りたかったが、これを取ったらきっと抑制がきかなくなる。
だから瞳で訴えかけた。
――キスしたくて、しょうがない。
触れたくてたまらないんだ、と。
見つめあう行為が口づけに置きかわったかのような雰囲気に、相手の目元から力が抜けていく。
唇を上下のまぶたに、舌を眼差しにかえて、甘くとろけた目のきわに視線でキスをする。
またたきは相手の肌を食むしぐさ。瞳のゆらぎは心を舐める舌のうごき――。
瀬田川が一度、大きくブルリと全身を震わせる。
それから、まるで果てたかのように、やるせない表情で目をとじた。
不意に細い肩から力が抜けて、前のめりに倒れてくる。
「おっと」
ぐらりと傾いだ身体を、狩谷は手をのばして受けとめた。相手の頭を自分の肩にのせて、背中を抱きしめる。これくらいの接触は許されるだろう。
「……」
瀬田川は黙ってされるがままになっていた。だから狩谷も何も言わず背を支えた。
誰もいないフロアの片隅。
ブラインドと衝立に隠された、空調だけが響くオフィスビルの三十七階――。
狩谷は可愛く生まれ変わった男を、どうしてくれようかと興奮に瞬きもせず、いつまでもきつく抱きしめ続けた。
【終 】
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