夜明けを待つベリル 番外編 後編
「どんな子なんだよ。美人? 采岐さんの知ってる人? 会ったことあるの?」
知ってるもなにも、毎日会ってるんですが、とは言えなくて、思わず口ごもる。すぐに否定しなかったせいか、知っていると勘違いされて、さらに突っ込まれた。
「充家には言わないからさ。ちょっとだけでも、どんな子か教えてよ」
「え……。いやあ……。それは、ちょっと……」
まいったな、と頭の後ろに手をあてて、どう誤魔化したらいいのかと考える。そこに、路地の奥から充家が出てきた。
「待たせた」
言いながら、山口と遙士に不思議そうな目を向ける。山口はニヤニヤ笑いで、遙士のほうは弱った、という顔をしていた。
「どしたんすか?」
事情がわかってない充家が、怪訝そうに尋ねる。それに山口が、煙草をくわえながら説明した。
「いや、今ね。采岐さんにおまえの彼女のこと、訊いてたんだよ」
「えっ」
突拍子もない話題に、充家も驚いた顔になった。
「采岐さん、知ってるみたいだからさ。教えてくんねーかなって。だって、おまえ、絶対口割らないじゃんかよ」
充家が、なんでこんなことになってるのかという顔をしてくる。遙士は、俺だってわかんねーよと、拗ねた目顔でそれに応えた。
「なあ、采岐さん。こいつの彼女って、どんな子? かわいい? こいつ、毎晩のようにその子んとこ通ってるじゃん。そこまで入れ込むんだったら、よっぽど惚れてるってことだろ。あ、もしかして、俺らに取られるのがイヤで隠してるんかな?」
「いやあ……それは、ないでしょ」
苦笑いしか返せなくて、弱りきって首を傾げれば、その姿に充家がくっと声を押し殺して笑ってきた。遙士が自分のことを聞かれて、どう答えていいのか困っているのが面白く映ったらしい。
なんだよ、とこっそり睨んでやると、口に手をあてて隠しながら、さらに笑いを堪えた。
充家の顔色を気にして、彼女のことを話せないのだと勘違いした山口が、
「こいつのことはいいから、ホントのとこ教えてよ。実はわけありとか? もしかして人妻?」
と勝手なことをまくしたててくる。本当のことなど明かせるわけもなく、どう説明したものかと答えに窮していたら、横から充家がやっと助け舟を出してきた。
「かわいい子ですよ」
遙士に視線を投げながら、笑顔で告げる。
「めっちゃ美人でかわいくて、面白い子です」
臆面もなくのろけてきて、山口も遙士も目をぱちくりさせた。
「性格も明るくて、社交的だし。俺より頭もいいし。笑うと愛嬌がある顔になるし」
「……ほお」
煙草を手にしたままの山口が、感心した声をもらす。
「なにより、俺のこと、すごくよくわかってくれてる」
目元に笑みを浮かべて告白した。聞いているこっちは、あっというまに顔に熱がのぼって、茹ったような状態になる。
「……そっかあ。そりゃあ、お前も、いい子つかまえたなあ」
「はい」
「だったら、大事にしなきゃあだな。離さないように、ちゃんと捕まえとかないと。まあ、そんなにいい子だったら、将来のことも考えてやらんとな。結婚とかさ」
「へっ、けっ、……こ……」
横でヘンな声をあげてしまい、慌てて両手で口をふさぐ。ふたりはそれには気付かなかったようで、充家は、そうですね、と素直に頷いた。
「ちゃんと考えないと。けど、俺もまだこんなだし。もっとしっかりしてから、きちんとしたいなと」
それには山口も、少し神妙な面持ちになった。
「うん。まあ、そうだけど。けど、お前もちゃんとやれてるんだし。そこんとこはきっと大丈夫だろ」
肩をばんばんと叩いて、暗くなりそうだった空気を笑い飛ばす。充家もそれに微笑み返した。
そこに、もうひとりの職人がやってきて「やまぐっちゃん、お待たせ」と声をかけてきた。山口がそれに、おお、と返事をかえす。
「そんじゃ、俺らはこれで」
連れ立っていく職人に挨拶をして、遙士と充家も車に乗り込んだ。
遙士の顔はまだ火照ったままだった。
車を走らせて、郊外の田舎道へと出る。あたりには畑や田んぼが広がり始めた。
「……」
さっきの会話が気になって、ハンドルを持つ手が覚つかない。充家がいつもどんな風に自分を見ていたのかが、目の前で明らかにされて、嬉しいやら恥ずかしいやらでどこに向かって走っているのかもわからなくなりそうだった。いやそれより、もしかしたら、ただ単にからかっただけなのかもしれないけれど。
「……えっとさあ」
隣で、窓枠に肘をかけて前を見ていた相手に話しかける。
「うん?」
「さっきのあれさ」
「うん」
何を聞いていいものやら、それもわからなくなる。あれは本音ですか、それとも冗談ですか、結婚とは一体なんなんでしょうか、とか、頭のなかでぐるぐる単語がまわる。
「マジ恥ずかしかったんだけど」
「ああ」
笑いを堪える表情になった。やっぱりからかっただけだったのか。充家は頬杖つくようにしてこちらを眺めてきた。
「遙さ」
「うん」
充家は、遙士のことを『ハル』と呼ぶ。そのほうが言いやすいらしかった。
「来年の春には、就職して、ここ離れるだろ」
「ああ、うん」
話題が変わって、浮き立っていた気持ちがすっと消えていった。
四月になれば、遙士は社会人になり、就職先の企業もここから電車で二時間ほどの距離になる。そうしたら、今のように毎日は会えなくなるだろう。このことは充家に出会う前に決まっていたから、仕方がないのだけれど、やっぱりそれを考えると寂しさを感じる。
この話になると遙士の元気がなくなるのを充家も察しているのか、最近は、ふたりのあいだで四月以降の話は出なくなっていた。なのに、急に持ち出すとはどうしたのか。
「そこで、ずっとこの先も働くつもり?」
「ああ……。俺が配属されるのは研究所にほぼ決まりだから。よっぽどの失敗や事情がない限り、営業とかに飛ばされることもないだろうし、そこで働くと思うよ。教授の口利きだから、辞めようにも簡単にはできないからな」
なんでそんなこと訊く? と、信号で止まったついでに首をひねる。充家は少しのあいだ、考え込む表情になった。
「俺さ」
それから、思い立ったように口をひらいた。
「ん?」
「三十歳をメドに、坂井さんとこから独立しようかって考えてるんだ」
「え?」
「それまでに金を貯めて、自分の工房を持ちたい」
「……」
初めて聞く話だった。
「だから、そんときには、できたら遙の働いてる場所の近くに工房を探したいかな」
「……え」
「そしたら、また今みたいに会えるようになるだろうし」
「……」
信号が青になっても、頭がすぐに反応できなくて、慌ててアクセルを踏んだ。
なんだか、胸の奥からわきあがってくるものがあって、ハンドルを握った手が心許なくなって、さらに視界まで歪みそうだった。
充家がそんなことを考えていたなんて。全然、知らなかった。
「だ、だったらさ、俺、その工房の近くに、家を買う。そうすれば一緒に暮らせるようになるじゃんか。毎日、一緒に家をでて仕事場むかってさ、夜にはまた会えるし。食事もそろってできるだろうし、寂しくて心配になることもないしさ」
一応、自分だって春からは稼げるようになる。三十歳で小さくても家ぐらい買えるようになるだろう。
けれど、充家はそれに不満そうな顔をしてきた。
「……なに?」
一緒に暮らすのはイヤなのか。運転しながら、隣を横目でうかがった。
「それはヤなの?」
「いや、そうじゃなくて」
充家はハンドルを操作する遙士を見て、唇を引き結んだ。
「工房は俺が決める。だけど、家も俺が用意する」
「……え?」
「だから、遙は、身ひとつで、俺んとこ来てくれればいい」
「……」
暗い夜道を見ながら、なんどか目をしばたたかせた。
「……えっと」
言われたことを、確認する。
「それって、俺に、嫁にこい、ってこと?」
「うん」
即答された。
そういえば、と思い出せば充家は長崎出身だった。だったらやはり九州男児的な、思考の持ち主なんだろうか。黙って俺のところに嫁いでこればいいみたいな。けれどこっちだって男なんだから、頼ってばっかりじゃいかんだろう。
「いやいや。だって、俺だって社会人として働くんだからさ。お前にばっかりまかせっきりなのはイヤだよ。お前は自分の工房を建てればいいじゃん。家は俺が用意する」
きっぱりと言ってみる。それに充家は、「む」と納得いかない表情になった。
「なんだよ。てことは……。俺が、遙の嫁ってこと?」
意表をついたセリフに、ぶっと吹きだす。
発想が飛躍しすぎだ。けれど、……まあそれも面白いかもしれない。
身ひとつで来てくれということは、本人以外はなにもいらない、自分が全部用意して、幸せにしてやるからという意味だ。苦労させないで、養って、大事にしていくという気持ちの表れだ。充家にそんなこと言われると、すごくくすぐったくなる。しかし自分だって、同じように大切にしてやりたいという気持ちはある。
「そういうこと。身ひとつで俺のとこ来てくれよ」
笑いながら提案すると、充家はさらに悩める顔になった。どっちが嫁ぐことになるんだと、真剣に考えはじめる。ふたりで半分ずつ、という発想には至らないらしい。全部、自分がやりたいのだ。
街灯もまばらな道路には、対向車もほとんどいない。暗い夜道を進みながらも、車内の雰囲気は明るかった。
遙士はハンドルを操作しながら、けれど心の中ではもう決めていた。
どんな未来であろうと、充家のしたいようにやらせてやろうと。
充家が将来の話をするのが嬉しい。五年後でも、十年後でも。明日でも、明後日のことでも。そういう時は、前向きに人生を考えているのだとわかるから。充家が未来を見ているのなら、きっともう、過去を振り返ることはないだろう。ふたたびアルコールに捕らわれることも。
そして彼の見る未来の風景の中に、いつも自分が立っていられたら。それ以上に、望むことはない。
信号で停車したついでに、隣の男を見やる。まだ何か考えごとをしているのか、フロントガラスの先を眺めていた。
「一征」
名を呼んでから、前後左右を見わたす。ほかに車はいない。
「これからのことは、一緒にゆっくり考えていけばいいよ。まだ先は長いんだし」
そう伝えれば、充家はふっと微笑んできた。
「まあ、――それもそうだな」
「うん」
身を乗り出して、助手席に近づく。気配を察して、充家も身体を向けてきた。
遙士が唇を尖らせると、どうして欲しいのかわかったらしく、視線だけで周囲を確認する。
夜の道路には、自分たちしかいない。
「この先も、ずっと一緒にいるんだからさ」
遙士の言葉に、眼差しが甘く和らいだ。ずっと一緒にいる、という言葉に安堵するように表情が穏やかになる。
「そうだよな」
充家がゆったりと首を傾げて、瞳を落とした。シートベルトをかるく外す音がする。
互いに顔をよせ、約束のように優しく触れあうキスをした。
***おわり***
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